人形佐七捕物帳 巻八 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  怪談|閨《ねや》の鴛鴦《おしどり》  八つ目|鰻《うなぎ》  七人|比丘尼《びくに》  女易者  狸《たぬき》の長兵衛《ちょうべえ》  敵討《かたきう》ち人形|噺《ばなし》     怪談|閨《ねや》の鴛鴦《おしどり》  浮き世床うわさの聞き書き   ——地獄耳の源さん語るよう——  式亭三馬の『浮き世床』を読んでもわかるとおり、江戸時代には髪結い床というやつが、町内のわかい衆の、寄りあい場所になっていた。  妙なもので、そのころは、男は髪結い床でひとに髪を結わせるが、かえって、女のほうはめいめいじぶんで、髪を結ったもので、のちに百さんという、しばいのかつらをゆう床山が、女の髪をゆうことをはじめたら、これがたいそうちょうほうがられて、ほうぼうから、ひっぱりだこになったところから、ぞくぞくと、百さんの模倣者があらわれたが、それでも堅気の家では、女はまだじぶんの髪を結っていたもの。たまに、髪結いの出入りをする家があると、あそこのおかみさんは所帯くずしだの、あの娘ははすっぱ者だのと、つまはじきされたくらい、いや、パーマをかけなければ女でないようなちかごろとは、雲泥《うんでい》の相違があったというものだ。  さて、閑話休題。  そういうわけだから、髪結い床とくると、女人禁制の男の世界、八つぁんもくれば熊《くま》もくる。お店《たな》の番頭さんもくれば、横町のご隠居の顔もみえる。易者もくれば、神主もやってくる。  これがみんな、髪を結いにやってくるのかと思うと、そうばかりではない。  あみだくじかなんかで買ってきたあめ玉をしゃぶりながら、世間話、むだ話、まず近所の娘新造のたなおろしからはじまって、しばいのうわさ、寄席《よせ》の評判、さては富くじの話から、しまいにはかどの米屋が、桝目《ますめ》をごまかす悪口にいたるまで、およそ神祗釈教恋別離《じんぎしゃっきょうこいべつり》、ここへくれば、ちかごろの世間のできごとでわからぬことはないという、さしずめ、現今の放送局か新聞社みたいな存在だ。  ところで、お玉が池の人形佐七のふたりの子分、きんちゃくの辰とうらなりの豆六も、ごたぶんにもれずこの髪結い床のご常連で、捕物のひまさえあればいりびたっているのが、鎌倉河岸《かまくらがし》に伊勢海老《いせえび》が威勢よくぴんとはねているところをおもての油障子にかいたところから、ひと呼んで海老床《えびどこ》という、その海老床のなかに辰と豆六のすがたがみえたなら、まず世間の犯罪者どもは、安心してよろしいといわれるくらい。 「おや、お玉が池の兄い、ひさしぶりですねえ。おまえさんの顔が、ひさしくみえねえもんだから、なにかまた、大物があったんだろうと、このあいだも、ここの親方とうわさをしていましたのさ」  いましも表からはいってくるなり、そこにとぐろをまいている辰五郎のすがたをみつけて、そうあびせかけたのは、この近所でも金棒引きをもってしられている源さんという男。  金棒引きだけに耳もはやくて、一名、これを地獄耳の源さんという。 「おお、源さんかえ。しばらく。なに、大物というほどじゃアねえが、すこしはほねもおれたのさ。やっとゆうべそいつがかたづいたから、きょうはひさしぶりに、羽根がのばせるのよ」 「ほんに、おまえさんの稼業もたいへんだが、でも、いい親分についてしあわせさ。なにしろ、お玉が池の親分は、年こそわかいがたいした腕だ。大地をうつ槌《つち》ははずれても、人形佐七がにらんだからにゃ、十にひとつも、まちがいはないというんですからね。ときに、うらなりの兄いはどうしましたえ」 「豆六ならそこで草双紙を読んでるぜ。なにしろ、こいつ、草双紙ときたら目のねえほうで、きょうもここへくるなり、あいつを見つけると、さあ、それからもう、ひとことも口をききゃがらねえ。まったく困ったにいさんよ」  なるほど、辰がなんと悪口をいおうとも、豆六はどこ吹く風とばかりに、うすべりのうえに寝そべったまま、ただもう、草双紙に無我夢中。  源さん笑って、 「ほんとうに、うらなりの兄いは、こいつが好きですねえ。いつ来てみても、なにか読んでいないことがない。ときに、きょうのはいったいなんです」 「なんだかしらねえが、あいつがここへくるのは、これがお目当てなんだからな。おい、豆六や、いったい、こんどのはなんという本だえ」 「うるさいなあ、みんな、もっと静かにしたらどや。いま、いちばんおもしろいとこやないか。うだうだいわんと、黙ってておくれやす」 「わっ、あれだから、源さん、あんまり取りあわないほうがいいよ。うっかり話しかけるとかみつかれるぜ」  きんちゃくの辰は笑いながら、キセルをポンとたたいたが、源さんはおかまいなしに、豆六のそばへすりよって、読んでいる草双紙を、横からのぞきこんだが、ふいに、おやと顔をしかめた。 「兄い、おまえさんの読んでいるなあ、そりゃさきごろ、柳下亭種員《りゅうかていたねかず》のあらわした『怪談閨《かいだんねや》の鴛鴦《おしどり》』じゃありませんかえ」 「そやそや、うるさいなあ、そうわかったらもうええやろ。はよむこへいってんか」  豆六はうるさそうに首をふったが、それをきくと、地獄耳の源さん、にやりと微笑して、 「おや、それじゃ兄いは、まだあの騒ぎを知らないとみえますね」  と、子細ありげに首をひねったから、きんちゃくの辰はいうにおよばず、さすが草双紙に魂をうばわれていた豆六も、おもわずおやと、源さんのほうをふりかえった。 「それじゃなにかえ。その怪談閨のなんとかについて、なにか騒ぎがあったのかえ」 「こいつはあきれた。それじゃまったく、兄いたちはなにもご存じでねえので。へへえ、おどろいたね、こいつは。——両国かいわいは、けさからその話で持ちきりなんだが、それをおまえさんがたが知らねえとは、へえ、そうですかねえ」  金棒引きの源さんは、しきりに首をふっているから、さすがに、気のながい豆六もたまりかね、 「なんや、なんや、源さん、そない思わせぶり、せえでもええやないか。さっさと話したらどやねん。なにか両国で、変わったことでも持ちあがったんかいな」 「変わりも変わり、奇妙きてれつな騒ぎなんで。そうですか。おまえさんがほんとに、なにも聞いていなさらねえのなら話してもいいが……」  と、源さんはおつに気どって、 「うらなりの兄いはご存じだろうが、その種員の合巻本《ごうかんぼん》は大当たりで、ちかごろ出た草双紙中の傑作だといわれています。豆さんはそこまでお読みかどうかしらないが、筋をはなすと、男にだまされた遊女の花鳥、これが自害したあげく、男の婚礼の晩に化けて出て、いつのまにか、これが花嫁と入れ替わっていようという、そういう場面があるんです」 「そやそや、わて、いまそこまで読んだとこや」 「そうでしょう。ところで、この本があまり評判なもんだから、ちかごろ東両国にできた化け物屋敷の見せ物のなかに、この婚礼の場面を生き人形にしてあります。ところが、ゆうべ——というより、けさのこと、その化け物屋敷のなかで、まことに妙なことが起こったので——」  と、さすがに話じょうずの源さんのことだから、いつのまにやら、海老床の連中はみんなおもわず、きき耳をたてている。  人形に魅入られた庄太   ——そのとき佐七は少しも騒がず  さて、源さんの話した奇妙なできごとというのはこうなのである。  化け物屋敷の木戸番で、多助というしらがまじりのじいさん。  これがその朝、れいによって、うす暗い小屋のなかを見まわっていると、れいの『閨《ねや》の鴛鴦《おしどり》』の場面のなかに、だれやらひとり倒れているものがある。  紺の香もまだあたらしい法被《はっぴ》に股引《ももひ》き、ひとめで大工の下職としれようという、まだうら若い、いなせな、いい男なのである。  これがこう、髪ふり乱し、青黛《せいたい》をはいたようなあおい顔で、きっとくちびるをかみしめて倒れているんだが、見ると、左の腕にぐさりと一本、銀のかんざしがつっ立っていて、そこから赤ぐろい血が、たらたらと流れていようというわけ。  なんしろ、場所が場所だけに、多助じいさん、年がいもなく、きゃっとばかりに腰をぬかした。  さいわい、まだ客を入れてなかったが、それでも、小屋のなかはうえをしたへの大騒ぎ。  とりあえず、その男を表へつれだして介抱すると、まもなく、ケロリと息を吹きかえしたが、さてそいつが、キョトンとして話したところによると——  その男、名を庄太《しょうた》といって、横網町のある棟梁《とうりょう》の下職なんだが、そのまえの晩、所用あって、小梅のほうへ出かけたが、にわかの雨に雨宿り、こいきな寮のおもてにたたずんでいるところへ、ちょこちょこ出てきたのが、入谷《いりや》の寮にでも出てきそうな小女。  そこははしぢか、まあ、こちらへというようなわけで、おくのはなれ座敷へ案内されたが、そこへ出てきたのが、これはまた、ふるいつきたいくらいのいい女なんで。  病みあがりかなんかとみえて、こう、色青ざめ、ほっそりと、物思いにやつれているのが、いや、もうたまらないほどの美形。  みずから名のるところをきけば、名は花鳥、吉原《よしわら》の大籬《おおまがき》、柘榴伊勢屋《ざくろいせや》のお職女郎だが、からだを悪くしての、出養生だとわかった。 「ほんに、毎日くさくさしてなりません。失礼ながら、ひと晩ことばがたきにでも」  と、あじな目つきで杯をさされたときには、庄太の野郎、ブルブルとふるえあがった。  というようなわけで、さしつさされつよろしくあるところへ、ガラガラピシャリ、つまり、おあつらえむきに雷が鳴ったんですな。  癪持《しゃくも》ちに雷は禁物。 「あれ」  とばかりに、花鳥は庄太のひざにかじりついたが、さて、そのあとはみなさまお推もじ。  しばらくあって花鳥がみだれ髪をかきあげながらいうには、こういう仲になったのも、なにかの因縁。庄さん、きっと変わってくださるな。なんの変わってよいものか。それでは庄さん、かわらぬ起請《きしょう》にたがいの生き血を。  ——と、いうやいなや花鳥は、銀のかんざし抜くよとみるまに、ぐさりとそれを、庄太の左の腕に突っ立てたというんです。 「おらア、びっくりしました。あっと叫んだそのひょうしに、あたりがまっくらになって、そのまま気を失っちまったんですが、はて、ここはいったいどこでしょう」  きつねつきが、きつねがおちたように、庄太のやつ、ぼんやりしている。  こいつをきいて、おどろいたのは小屋の連中だ。  花鳥といい、柘榴伊勢屋というのは、これすべて『怪談|閨《ねや》の鴛鴦《おしどり》』のなかに出てくる名まえ。あまりふしぎだというので、庄太の腕に突ったっていた銀のかんざしを調べてみると、これがまた、花鳥人形のさしていたかんざしなんです。  おまけに、幽霊人形の持っている祝言の杯には、ドップリと、赤ぐろい血がたまっていたから、さあ、たいへん、太助じいさんはじめとして、小屋の一同は、あっとばかりにおどろいた。 「——というわけで、兄い、東両国のかいわいは、けさからこのうわさでもちきりなんですが、それをおまえさんがたがご存じないとは、いやはや、これこそほんとのおどろきですねえ」  と、得意顔にかたる源さんの話に、辰と豆六は、おもわずあっと顔見合わせた。 「源さん、それゃおまえほんとの話かえ」 「ほんとも、ほんと、だれがうそなどつくもんですか」 「いや、おまえさんがうそをつくとはおもわねえが、その庄太とかいう野郎よ、ひょっとすると、そいつがそんなでたらめをこさえていっているのじゃねえか」 「さあ、そこまではあっしにもわかりませんが、庄太だって、なにもそんなでたらめをいわなきゃならぬ筋はなかろうと思いますがねえ。そうそう、忘れていましたが、なんでもその庄太というのは、ことし二十の巳年《みどし》うまれだから、あの近所じゃ、花鳥人形にゃ魂がこもっている。そして、巳年うまれの男に魅入るのだと、いやもうたいへんな騒ぎですよ」  なにしろ、迷信ぶかいその当時のことだから、源さんはあくまで真顔だったが、辰と豆六は、さすがに佐七のお仕込みだけあって、それをうのみに信用する気にはなれない。 「なににしても、源さん、おもしろい話を聞かせてもらってありがとう。おい、豆や、そろそろかえろうじゃねえか」 「あいよ」  と、そこで、海老床を飛びだした辰と豆六、なににしても妙な話だから、いちおう、親分の耳にいれておこうと、それからただちに、お玉が池のわが家へかえると、佐七にむかって、これこれしかじかと、いちぶしじゅうを語って聞かせたが、佐七はきくなり笑いだして、 「はっはっは、たわいもねえ話だ。どうでネタはわかっていらあな」 「へえ、ネタがわかっていると申しますと」 「あの柳下亭種員というやつは、草双紙のほうはからっきしへただが、じぶんの本を売ることにかけちゃ、ふしぎに器用な腕をもっていやアがる。こんどのことでも、これがぱっと評判になってみねえ。もの好きな江戸っ子のことだから、われもわれもと、その怪談|閨《ねや》のなんとかというやつを買って読むことにならあ。そうすれば、いちばん得をするのは作者の種員よ。どうだえ、こういやア、だいたいからくりもわかるだろう」 「な、なるほど、そうすると、親分、庄太ちゅうやつは、作者の柳下亭種員にたのまれて、そんな狂言書きよったんだすかいな」 「まあ、その見当だと思っていりゃ、まちがいがあるめえよ」 「ちょっ、ひでえ野郎だ。そんなつまらねえまねをして、ひと騒がせをするやつは捨ててはおけねえ。親分、種員と庄太をひっぱってきて、どろを吐かせようじゃありませんか」  と、きんちゃくの辰がいきまくのを、佐七は笑って制しながら、 「いいからほうっとけ。だれが迷惑をこうむったというわけじゃなし、だまされて、本を買うやつがバカなのさ。なにも、ことを荒だてて、ひとの商売のじゃまをすることもあるめえよ」  と、佐七はそれ以上とりあおうとはせず、忘れるともなくこのことを忘れていたが、こんどばかりは、佐七の見込みもはずれたのか、それからまもなく、ここにまた、たいへんなことが起こったのである。  小梅の寮で人形の怪   ——番頭佐兵衛は腰を抜かして 「佐兵衛《さへえ》さんや、佐兵衛さんはおらぬか」  ふといキセルのがん首をトントンとたたいて、店にいる番頭の佐兵衛を呼びよせたのは、横山町の海産問屋、近江屋《おうみや》の大だんなで、太左衛門《たざえもん》という。 「へえ、へえ、だんな、なにかご用で」  と、番頭の佐兵衛がもみ手をしながら、奥座敷へあらわれると、 「佐兵衛さんや、おまえさんにちょっと、ききたいことがある。まあ、そこへおすわり」  太左衛門はなんとなく、苦《にが》りきった顔色で、 「ほかでもないが、うちの八十助《やそすけ》のことじゃがな。おまえさんもおおかた気づいているだろうが、ほんとにあれには困ったものじゃ。このひと月ほど、どういうわけか、顔色がすぐれぬと思えば、毎日のようにどこかへ出歩きおる。いったい、あれはどこへ出かけおるのじゃな」 「さあ、そうおっしゃればなんとなくご気分がおすぐれにならぬようにお見受けしますが、わたくしいっこうに——」 「知らぬというか。佐兵衛さん、困ったことじゃな。伊東屋との縁談もさだまり、婚礼の日取りまできまったというに、当人があのとおりふらふらしていては、伊東屋にたいしても面目ない。佐兵衛さん、あれになにか、できたのではないかえ」 「なにか、できたとおっしゃると?」 「はて、おまえさんらしくもない。八十助ももう年ごろ、どこかに、好いた女でもあるのではないか」 「さあ」  と、番頭の佐兵衛は、困ったように小鬢《こびん》をかいた。  近江屋のひとりむすこは、ことし二十になる役者のようなやさ男。ちかごろ、おなじ商売の、伊東屋の娘お糸というのと、縁談がさだまって、ちかぢかに婚礼をしようというのに、とかくふらふらと出歩きがちだから、さてこそ、親が心配するのもむりはなかった。  太左衛門はほっとため息をついて、 「それについて、佐兵衛さん、おまえさんに頼みというのはほかでもないが、ひとつ、おまえさん、あいての女がどこのなにものか、そいつをそっと、見届けておくれでないか。つまり八十助の行きさきを、突きとめてもらいたいのだよ。いまも見れば、八十助のやつ、あおい顔をして、ソワソワと、身じたくをしていたようすだが、いったい、どこへいきよるのか、おまえ、あとをこっそり、つけてみておくれでないか」  佐兵衛はちょっと困ったような顔をしたが、 「わかりました。だんなのご心配も、ごむりもございません。それじゃ、若だんなにはすまぬことながら、そっとあとをつけて、あいての女というのを、見届けてまいりましょう」 「おお、きいてくださるか、かたじけない。ああ、うわさをすればなんとやら、それそれ、八十助が出ていくようすじゃ」 「ああ、それでは、ちょっといってまいります」  と、番頭の佐兵衛、身じたくもそこそこに、八十助のあとをつけだしたが、こちらはもとより、そんなこととは知るどうりもない。  八十助はなんとなく浮かぬかおいろで、それでもソワソワとしたあしどりで、やってきたのは、向島の小梅のほとり。  おりから、浅草寺の暮れ六つ(六時)の鐘がゴーンゴーンと鳴りひびいて、雨さえバラバラと催してきたのに、八十助はいっこうにかまいもやらず、フラフラと、雪駄《せった》をはいた足をいそがせていくようすが、なんとなく、魂でも抜けたように気味が悪い。  と、みれば道のほとりに、こいきなかやぶきの門がみえる。いくらか荒れはててはいるものの、いかさま大家の寮ともおぼしい構え。  ここまでくると、八十助はフイと門のなかへ消えてしまったから、おどろいたのは番頭の佐兵衛だ。  さては、八十助のかくし女とは、この寮のなかにいるのか。これだけの寮を構えているとすれば、あいてはご大家の、かこい者かなにかにちがいない。  はて、ぬしあるものと関係を結んだとすれば、これはただではすまされぬ。  こいつは困ったことができたと、番頭の佐兵衛があとさき見まわしているところへ、ちょこちょこと、小走りに通りかかった子どもがある。 「ああ、ちょいと、ちょいと、にいさん」 「なんだえ」 「つかぬことを尋ねるが、むこうにみえるお屋敷は、だれさまの寮だえ」 「あ、あれはだれ様のお屋敷でもない、あき屋だよ」 「えっ、あき屋だと」 「そうさ。もとは吉原のお女郎屋の寮だったが、いつかあそこで花魁《おいらん》が、自害してからというもの、あき屋になって住むものもない。なんでも、ひとのうわさでは、幽霊が出るという話だよ。おお、こわや。おじさんもこんなところでまごまごしていると、お化けにとり殺されるぜ」  といったかと思うと、子どもは逃げるようにいってしまった。  さあ、これはいよいよただごとじゃない。  番頭の佐兵衛さん、もとより、あまり大胆なほうじゃないから、まっさおになって震えあがったが、さりとて、このまま逃げてかえるわけにもいかない。  そこは忠義にこった佐兵衛さん、ようやく気をとりなおすと、心をきめて、そっと寮のなかへ忍びこんだが、なかはおもったよりひどい荒れようだ。  町を出ると秋が早い。  白い花が幽霊のように、ゆらゆらと小雨のなかにふるえていて、庭は雑草がいっぱい。  その雑草をかきわけていくと、離れ座敷とおぼしいあたりで、なにやらボソボソと、ひくい声でささやいているものがある。  どうやら、これが八十助の声らしいので、おそるおそる近よった番頭の佐兵衛、細目障子のやぶれから、そっとなかをのぞいてみて、おもわずわっとのけぞった。  おりからの、逢魔《おうま》が時《とき》のうすやみのなかに、八十助がひとりの女をかきいだき、なにやらしきりにくどくどと、かきくどいているのである。 「花鳥さん、花鳥さん、どうぞかんにんしておくれ。親のいいつけで、どうあっても、伊東屋のお糸さんを、女房に持たねばならぬけれど、わたしゃけっして、おまえを捨てるわけじゃない。そのうちに、時期をみて、おめかけになりなんなり、おまえの気のすむようにいたします。どうぞ、こんどのことだけは不承しておくれ。ええ、なに、いやじゃ。もしお糸さんと夫婦になるなら、きっと、婚礼の晩にとり殺す? あれ、どうしよう、わたしがこれほど頼むのに、おまえはきいておくれでないのかえ」  ため息をつくような八十助の声に、ふとあいての女というのに目をやった番頭の佐兵衛、こんどこそ、魂がでんぐりがえるほどぎょうてんした。  横山町と東両国とは、つい目と鼻のあいだのことだから、佐兵衛も評判につられて、あの化け物屋敷をのぞいたことがあるが、いま、八十助がひざのうえに抱きしめて、かきくどき、かきくどきしているのは、たしかに見おぼえのある花鳥人形。  青黛《せいたい》をぬったようにあおい顔、ふりみだしたざんばら髪、やみのなかにも、くっきりと浮きあがっている源氏車の友禅の着つけ。  番頭の佐兵衛は、そのとき、ふと八十助が巳年《みどし》の生まれであることに気がついた。 「ああ、若だんな!」  佐兵衛が叫ぼうとしたとき、ふいにつめたい手が、スーッと顔を下からなでたかと思うと、ガーンと頭をひとつやられて、目から火花が飛びちって、 「ヒッヒッヒ!」  と、どこやらで、気味のわるい音羽屋ばりの引き笑い。  番頭の佐兵衛さん、そのままウーンとのけぞったが、それからしばらくして、降りしきる雨にほおをあらわれて、ふと気がついてみると、いつのまにやら、東両国の、あの化け物屋敷の裏側にねているのだった。  番頭さん、それに気がつくと、 「ハークション」  と、くさめをひとつして、それからまたもや、思い出したように、ブルブルッと、からだをふるわせたのである。  食い殺された花嫁花婿   ——松の枝から人形花鳥がフラリと 「親分、た、たいへんだ、たいへんだ。珍事|出来《しゅったい》、一大事突発、いつぞやの親分の見込みははずれましたぜ」  夏霜枯れ——とでもいうのか、ちかごろ、とんと事件がなくて、連日うだりっきりの、きょうもきょうとてうとうとと、昼寝の夢を追っている佐七のところへ、あわをくってとび込んできたのは、いわずとしれたきんちゃくの辰とうらなりの豆六だ。 「なんだねえ、辰つぁんも豆さんも、親分はいまいい気持ちで寝入りかけていなさるところじゃないか。話があるなら、もう少し静かにかえってきたらどうだえ」  女房のお粂《くめ》が、たしなめることばも耳にはいらばこそ。 「あねさんのおことばやが、これが静かにしとられまっかいな。親分、さあ、起きなはれ、起きておくれやす」 「ああ、起きてるよ、そして、おれの見込みちがいというのは、いったいなんのことだえ」  佐七がうるさそうに、なまあくびをしながら寝返りをうつと、辰はちょっと舌打ちして、 「あれ、こんなだいじな話を、寝ながらきこうというんですかい。まあ、いいや、それじゃ話してきかせますがね、いつかの花鳥人形が、とうとう人殺しをしやアがったんです」 「なに、花鳥人形が人殺しを?」  これには、さすがの佐七もおどろいて、おもわずむっくり起きなおると、 「してして、殺されたのはどこのだれだえ」 「そうれ、見なはれ、やっぱり起きんなりまへんやろ。あの『怪談閨の鴛鴦』の花鳥が、ほんまに人殺しをしよったんだっせ。しかも、殺された人間はひとりやない、ふたりや。しかも祝言の杯がすんだばかりの、うら恥ずかしい花嫁花婿、これがゆうべ花鳥人形に、食い殺されたちゅうんやさかい、いま、両国かいわいはどえらいさわぎや」 「辰、豆六、てめえたちはいったい、どうしたもんだ。そうてんでにしゃべってちゃ、ねっから、らちがあかねえじゃねえか。いったい、いったい、殺されたのはどこのだれだえ」 「だから、いってるじゃありませんか。殺されたのは近江屋のひとりむすこの八十助と、ゆうべそこへ嫁入りしてきた伊東屋の娘のお糸のふたり。親分、まあ、ききなせえ、こういうわけだ」  と、そこで辰と豆六が、いまきいてきたうわさ話をこもごも語るところをきくとこうなのだ。  近江屋のひとりむすこの八十助が、花鳥人形に魅入られたということは、近江屋ではかたく秘密にしていたのに、悪事千里を走るのたとえ、どこからともなくもれて、近所じゅうでの評判だった。  八十助が、父の太左衛門に語ったところによると、ある日ふと、評判につられてれいの『閨の鴛鴦』のまえに立ったとき、なんともいいようのない異様な気分にうたれたが、それ以来、夢ともなく、うつつともなく、あやしい女があらわれて、じぶんにつきまとっているというのである。  この告白におどろいたのは太左衛門で、さっそく、医者にもはかり、易者にも相談したあげく、これはかえって独身でおいておくからよろしくない。  はやく嫁でも持たせたなら、かえって、こんなあやかしもなくなるだろうと、おびえきっている八十助を説きふせて、秋に予定されていたのを繰りあげて、とうとうゆうべ、伊東屋の娘お糸との婚礼のはこびとなった。 「ところで、その祝言の杯もおわって、花嫁花婿もぶじに離れ座敷へ、お引けとなったと思いなさい」  と、きんちゃくの辰と豆六が、どこで聞いてきたか昨夜のあらまし。 「なにせ、名代の大店《おおだな》のことですから、表のほうではわかいものがふるまいざけに酔っている。奥のほうじゃ、近江屋と伊東屋の親戚一同、祝い酒にいい気持ちになっていたんです」  ところが、夜も四つ半(十一時)ごろのこと、中庭のほうで、きゃっという叫び声がきこえたので、なにごとやらんとひとびとが出てみると、女中のお梅というのが、縁側にぶっ倒れている。 「どうした、どうした」  抱きおこして介抱すると、 「あれ、花鳥さんが、花鳥さんが……」  いいながら、お梅ははなれ座敷を指さした。  花鳥人形のあやかしは、お梅もとうから聞いていたのである。 「なに、花鳥が」 「はい、その松の木のところから、こう、ふらふらとおりてきたかと思うと、離れ座敷のほうへスーッと」  と、いいもおわらぬうちに、おくの離れ座敷で、またもやきゃっとたまげる声。  ひとびとがはっとして、ふすまをけやぶってとび込んでみると、あな、むざん、塒《ねぐら》をあらされた鴦鴛《おしどり》の、すそをみだして、花嫁花婿がぶっ倒れているのだが、そのとき、ひとびとがおどろいたのは、そればかりじゃなかった。  いましも、そばの丸窓をけやぶって、外へとび出そうとする女、源氏車の友禅に、髪をこうふりみだして、くちびるをまっかに染めたところは、まぎれもなくあの花鳥人形。  それがふらふらと、丸窓の外へとび出したとおもうと、すがたは夜のやみに消えてしまった。 「親分、ほんとに消えちまったんですぜ。なぜって、そいつが外へとび出すか、とび出さぬうちに、近江屋のだんなをはじめ二、三のひとびとが、丸窓のところへとんでいったんすが、庭にゃ犬の子一匹いやアあしません。だいいち、足跡さえなかったんだそうです」 「ふうむ。それで、花嫁花婿のほうはどうしたんだえ」 「それが、親分、えらいこっちゃ。かわいそうに、ふたりとものどを食い切られて、こう」  と、豆六は虚空をつかんでみせたが、あんまりいいかっこうじゃない。 「フーム、ふたりとも、のどを食い切られているのかえ」 「そうなんで。しかも、ここにふしぎなのは花嫁ですが、殺されるときあいてにしがみついたとみえて、源氏車の片そでを握ってるんです。ところが……」 「ところが、親分、こわいやおまへんか。けさ、化け物屋敷の花鳥人形をみると、その片そでがなくなっていたちゅう話だす。おまけに、人形のくちびるに、血がこうべったりくっついて……」  と、豆六は、いまさらのように身震いしたが、佐七は聞くなりシャッキリ立って、 「よし、辰も豆六もいっしょに来い。人殺しもかずあるなかに、人形をつかっての怪談仕立て、そのやりかたがつら憎い。こいつはどうでも、骨の髄まで洗ってやらにゃ気がすまねえ」  さあ、いよいよ、人形佐七の出馬ということになるのである。  猜疑《さいぎ》し合うふたりの親   ——花鳥のたもとの中からむかでの割り符  さて、その朝の両国かいわいは、それこそ赤穂《あこう》義士の討ち入り以来の大騒ぎだった。  なにせ、あの大工の庄太のあやかしがあってからというもの、とかくへんなうわさがたえなかった花鳥人形が、ついに人殺しをしたというのだから、これが評判にならずにはいられない。  近江屋のせがれ八十助は、花鳥人形に魅入られていたにもかかわらず、ほかから嫁をとろうとしたから、ついに夫婦とも花鳥人形にくい殺されたのだなどと、なにしろその当時のことだから、ほんとにそんなことを信じているらしく、よるとさわると気味のわるいうわさ話。近江屋のまえは朝から黒山のひとだかりだったが、そういうなかをかきわけて、いましもやって来たのは人形佐七だ。  辰と豆六が、右大臣、左大臣というかっこうで、ついていることはいうまでもない。 「ごめんくださいまし。このたびはまたとんだことができましたそうで。あっしゃアお玉が池の佐七というもんですが、多少こんどのことについて、心当たりがございますから、どうぞその由、だんなにお取りつぎなすってくださいまし」  ぴたりと大戸をおろした近江屋の、くぐりから中へはいると、佐七のていねいな口上だった。  お店にいた丁稚《でっち》、手代、番頭は、寝不足のあおい顔をあつめて、朝からひそひそと、気味わるい幽霊話におびえきっていたが、それでも佐七の口上をきくと、すぐそれをおくへ通した。  やがて、番頭の佐兵衛が出てきて、 「おう、これはこれは、お玉が池の親分さんでございましたか。取りこんでおりましてはなはだ恐縮でございますが、どうぞお通りくださいまし」 「それではごめんくださいまし」  佐七が案内されたおくのひと間には、白布でおおわれた花嫁花婿の死体が安置されていて、そのまくらもとには、あるじの近江屋太左衛門があおい顔をして腕組みしている。  そのそばには、太左衛門とおなじ年ごろのでっぷりとふとった赤胴色の大男、ひげのそりあとのあおあおとした、なんとやら目つきの鋭いのが、これまた屈託顔で腕こまぬいている。 「おお、お玉が池の親分さんでございますか、ご苦労さまでございました。わたしがあるじの太左衛門でございます。こちらにおりますのが、嫁のお糸の父親で、伊東屋重右衛門と申すもの、なにとぞよろしくお見知りおきくださいまし」 「いや、このたびはなんとも申し上げようのないご災難で、さぞお力落としでございましょう。ときに、これが花嫁花婿の……」 「はい、むざんな死骸でございます。どうぞおあらためくださいまし」 「それでは、失礼ながら、ご免こうむって……」  辰と豆六にてつだわせた人形佐七、白布をめくって、面をそむけるようなむざんな死体を、かわるがわるあらためていたが、ふいにはっとしたように目を光らせた。  伊東屋重右衛門は、はやくもそれに目をとめて、 「親分、なにか変わったことにでも、お気づきになりましてございますか」 「いえ、これはもうみなさまもお気づきかもしれませんが、おふたりとものどを食いきられたなかに、ふしぎなのは花嫁のお糸さん、食い切られた傷跡のほかに、首のまわりに細いあざができているのは、いったいどうしたというんでございましょう。まるで細いひもかなんかで、くびり殺されたような傷跡がついております」  重右衛門ははっとしたように目を光らせ、よこから娘の死体をのぞきこみ、 「おお、なるほど、わたしはちっとも気づきませんでしたが、近江屋さん、おまえさんはあれをご存じでしたかえ」 「いや、わたしもいっこうに……」  といったものの、太左衛門のことばつきには、なんとやらあいまいなところがあった。  重右衛門はなんと思ったのか、くわっとせきこみ、 「近江屋さん、おまえはもしや……」  と、ことばするどくなにかいおうとしたが、はっと佐七の視線に気づくと、 「いや、ほんとうに妙なことでございます。恐ろしいことで、恐ろしいことで……」  と、そのままぐったり顔を伏せてしまった。  佐七は、きっとその様子をながめていたが、 「それでは、ここはこれくらいにしておいて、ひとつ、ゆうべ花嫁花婿がおやすみになっていた離れ座敷というのを見せていただきましょうか」 「はい、どうぞこちらへおいでくださいまし」  やがて佐七のとおされたのは、ゆうべ惨劇のあった離れ座敷。  さすがに大店《おおだな》だけあって、数奇《すき》をこらした構えだったが、佐七はゆうべ、花鳥人形が逃げ出したという丸窓のそばへよると、 「なるほど、くせ者はここから逃げ出したのでございますね」 「はい、それがほんとにふしぎでございまして、ここから外へぬけ出すすがたを、わたしはたしかに見たのでございますが、つぎの瞬間、窓のそばへ駆けよって外をながめたときには、影もかたちもございませんので。いや、影やかたちばかりでなく、庭には足跡さえないのでございますから、こんなふしぎなことはございません」 「はっはっは、幽霊の逃げたあとに足跡があっちゃたいへんです。それにしても、この窓を……」  佐七は窓から半身のりだし、上下左右をながめていたが、やがてなにか心にうなずいて、 「それはまあ、それとしておいて、ときに、だんな、幽霊の残していった片そでというのはございますか」 「はい、それなら、佐兵衛さん、ちょっとあれを親分にお目にかけておくれ」 「はい、承知いたしました」  番頭の佐兵衛が気味悪そうに持ってきたのは、源氏車の片そでだ。  佐七はしばらくそれをいじくりまわしていたが、やがておやと顔をしかめると、 「だんな、ここになんだか妙なものがはいっておりますよ」  と、取り出したのは古びた木札、大きさはちょうど小判くらいもあろうか。  板のうえにくろぐろと焼きこまれているのは、二匹のむかでが輪になった、世にも奇妙な紋章だった。  近江屋太左衛門に伊東屋重右衛門、ひとめその木札を見るなり、はっとばかりに顔色をかえた。そして、たがいの顔をさぐるように、鋭い、猜疑《さいぎ》にみちた目を見かわしたが、佐七はすまして、 「いや、これもなにかの証拠になりましょう。おさしつかえがなかったら、あっしがこれをいただいてまいりましょう」  そのままぽんと、たもとの中にほうりこんだのである。  女軽わざ春風あやめ   ——抜け荷買いむかで組の張本人 「辰、豆六、これはよほどこみいった事件だぜ。なんだか二重三重に、因縁の糸がからんでいるらしい」  それからまもなく、近江屋を出た人形佐七は、なんだかうかぬ顔色だった。 「ほんとに妙でございますね。花嫁のお糸は食い殺されたんですかねえ。それとも、くびり殺されたんで?」 「それよ。くびられたのがさきか、のどをえぐられたのがさきか。それにしても、八十助のやつの殺されたのががてんがいかねえ」 「へへえ、八十助が殺されたんが、なんでそないにふしぎだんねん?」 「豆六、おまえにゃわからねえのかえ。八十助が花鳥人形に魅入られたというのは、みんなお糸をきらう狂言よ。おおかた、大工の庄太の話から思いついたんだろう。花鳥人形に魅入られていたという評判がたてば、この縁談が破談になるにちがいないと、さてこそ書いた狂言だが、どっこい、そいつがうまくいかずに、とうとうお糸と祝言するはめになった。そこで、花鳥人形ののろいにことよせて、お糸を殺したのは……」 「ああ、それじゃ八十助だとおっしゃるんで?」 「そうよ。くびり殺したそのうえで、かみそりかなにかでのどをえぐっておきゃあ、食い殺されたとしかみえめえ。おまけに、そこへ花鳥人形のなりをしたやつがちらと姿をみせておきゃ、疑いはみんなそっちのほうへむかあ」 「なるほど、そうすると、お糸を殺したんは八十助やとわかりましたが、その八十助を殺したんは、親分、いったいだれだんねん」 「さあ、そいつがわからねえから困るのよ。しかし、なににしても八十助にゃぐるがあるにちがいねえ。しかも、女で身軽なやつよ。だが、まあ、それはいいとして、ここまできたついでに、ちょっと花鳥人形をのぞいていこうじゃねえか」  横山町から東両国は目と鼻のあいだ、なにしろゆうべの一件がパッとひろがっているから、化け物屋敷はたいへんな入りだ。  押すなおすなという騒ぎで、これじゃせっかくの幽霊人形も、こわくもなければ、恐ろしくもなんともない。  その混雑にもまれもまれて、人形佐七がやってきたのはれいの『怪談閨の鴦鴛』のまえ。  ここはもう黒山のひとだかりだが、そのうしろからのぞいてみれば、銀燭《ぎんしょく》のほのぐらい婚礼のしとねに、ぬっとあらわれた源氏車の花鳥のすごさ。なるほど、その花鳥人形には片そでがなかった。  しかし、佐七がいま目をつけているのは、この花鳥人形じゃなかった。  ひそかにむらがっている見物を物色していたが、そのうちにふと目をつけたのは、人込みのなかから、おずおずのぞいているひとりのわか者。まだうらわかい、いい男ぶりだが、なんとなくその目つきが尋常ではない。  おびえたような目のいろで、しきりに花鳥人形をながめている。 「辰、豆六、おまえたちあの男を知らねえかえ」 「へえへえ、どの男で……? あ、親分、ありゃ大工の庄太《しょうた》ですぜ」 「そや、そや、あいつこんな騒ぎを起こしながら、またぞろここへやってきよった。かもうことあらへん。親分、ふんじばってしまいまほか」 「いいから、もう少し様子を見ていねえ」  三人がみているとも知らず、庄太はやがておびえたような目のいろで、化け物屋敷を出ていくと、やってきたのはすぐとなりにある女軽わざのまえ。  とつおいつ、しばらく思案をしている様子だったが、やがてずいと中へはいったから、三人はおやとばかりに小首をかしげた。 「親分、こりゃいま評判の女軽わざ、春風あやめの小屋ですぜ」  なるほど、そこはちかごろ両国の、人気を一手にさらっている女軽わざ、春風あやめの小屋だった。  それと気づくと、佐七はなにやらどきりとして、 「よし、それじゃこちとらもはいってみようぜ」  三人がはいっていくと、舞台ではいましも呼びものの太夫春風あやめが、紫|繻子《じゅす》の肩衣《かたぎぬ》つけて、とくいの早わざ綱渡り、さては虚空のブランコからブランコへとびうつる、いやその身のこなしの軽快なこと。  また、その顔のうつくしさ。としは二十二、三だろうが、こぼれるようなあいきょうは、なるほど両国きっての人気者とうなずかれた。  庄太はまじろぎもせずにこれをながめていたが、その目にはしだいに恐怖のいろが濃くなってくる。  そばからじっと、このようすをながめていた人形佐七、時分はよしとそばへよると、あいての耳に口をよせ、 「庄太、ゆうべ近江屋へしのびこんだ花鳥人形が、この春風あやめだということを、おめえどうして知っているのだえ」  庄太ははっとこちらを振りむくと、 「あっ、おまえさんは、お玉が池の親分」  そのままきびすをかえして逃げようとするのを、どっこい、ぐいときき腕をとらえた佐七は、 「やぼな声を出すない。おまえにちょっとききたいことがある。手間はとらさねえから、そこまで顔をかしてくれ。辰と豆六、てめえたちはこの小屋にのこって、あやめを逃がさねえように張りこんでろ」 「へえ、へえ」  庄太はもうへびに魅入られたかえるも同然。  がたがたとふるえながら、佐七について小屋を出たが、舞台のうえからそれを見送るあやめの目に、なにやら堅い色が浮かんだのを、さすがの佐七も気がつかなかった。  やがて、佐七はひとけのないものかげへ庄太をひっぱり込むと、 「庄太、なにもかもわかっているんだ。かくしだてせずと申し上げてしまえ。てめえが花鳥人形に魅入られたというさわぎは、ありゃ作者の種員《たねかず》にたのまれてやった仕事だろう」  ズバリといわれた庄太は、さっと血の気を失ったが、こうなっては、もうのがれぬところと観念したのか、 「いや、恐れいりました。さすがはお玉が池の親分さん、なにもかもお見通しでございます」  と、すなおに恐れ入ったから、佐七はにんまり笑って、 「よし、よく白状した。ところで、春風あやめだが、おまえどうして、あいつがゆうべの花鳥人形だと知っているんだ。まさかおまえこの一件まで、片棒かついでいるわけじゃアあるまいな」 「ど、どういたしまして、親分、それは無実の疑いでございます。しかし、それについてちょっと不思議な話がございますんで」  と、そこで、庄太の話したところによると、こうなのだ。  庄太が花鳥人形に魅入られたというのは、いまもいったとおり、まったく虚構のことで、これは種員に頼まれてやった狂言にすぎないのだが、それからまもなく、近江屋のせがれ八十助がおなじようなめにあったときいて、庄太はふしぎでならなかった。  花鳥人形に魂があるなどというのは、まったくうそだということを、だれよりもよく知っている庄太、いちじきつねにつままれたような気持ちだったが、そのうちにひょっとしたら、八十助のやつもなにか狂言を書いているのではなかろうか、と、そう気がつくと、さあ、きゅうに不安になってきた。  八十助の目的がわからぬだけにぶきみである。恐ろしい。  ひょんなことが起こって、もしじぶんまで巻きぞえにされちゃたまらんと、そこでこっそりそれ以来、八十助の挙動に目をつけていると、 「あいつはとんだ食わせもので、あんなおとなしそうな顔をしていながら、春風あやめという莫連者《ばくれんもの》と、だいぶ以前から、できているんでございます。しかも、八十助のあの狂言というのも、どうやら、あやめの入れ知恵らしいことがわかりましたので、なんのためにそんなことをやるのかと思って、あやめの素性を探っているうちに、とうとうゆうべのあの一件で……」 「なるほど、それでおまえは、てっきりあやめが下手人だと思って、ようすを見にきたんだな」 「へえ、おっしゃるとおりで。足跡ものこさず逃げるようなくせ者は、あのあやめをおいてほかにゃありません。あいつはきっと丸窓をとび出すと、そのまま屋根にトンボがえりして逃げたにちがいないんで」 「えらい。おまえはなかなかすみへおけねえぜ」  佐七は舌をまいて感服しながら、 「ときに、いまおまえは、春風あやめの素性というのを探ったそうだが、それでわかったかえ」 「へえ、わかりました。親分、あいつは七年まえに牢死《ろうし》した抜け荷買いむかで組の張本人、駿河屋《するがや》清蔵というものの娘でございますよ」 「なんだと? むかで組だと?」  佐七がはっと顔色をうごかしたときである。 「親分、たいへんだ、たいへんだ。春風あやめがいまブランコから舞台のうえへまっさかさま——」 「落ちたと思ったら、舌かみきって死んでしまいましたぜ」  辰と豆六が息せききっての注進に、さすがの佐七もあっとばかりに、どぎもをぬかれてしまったのである。  裏の裏あやめの計画   ——柳下亭種員は手錠百カ日——  春風あやめは舞台のうえから、庄太が佐七にひったてられるところを見て、もうこれまでと覚悟の自殺を遂げたのであろう。  そののち、あやめの持ち物のなかから出てきた書状によって、あやめがむかで組の張本人、駿河屋清蔵の娘、お百というものであることもあきらかになった。 「つまり、なによ、近江屋太左衛門も伊東屋重右衛門も、そのむかで組の仲間だったんだ。ところが駿河屋がつかまえられると、その口からじぶんたちの名が漏れちゃたいへんとあって、牢《ろう》へおくったまんじゅうのなかへ、ひそかに毒をしこんで、駿河屋を殺してしまったんだ」 「ひでえ野郎たちですよ」 「どうせ抜け荷買いをするようなやつらだ。義理も人情もありゃアしねえ」 「それで駿河屋は闕所《けっしょ》、娘のお百はさんざん苦労したあげく、とうとう女軽わざにまで落ちぶれよったんですな」 「まあ、そういうことだな。そのうちにどっからか、おやじの死んだ原因を聞きこんだにちがいねえ。そこで、ひそかに伊東屋と近江屋をかたきとつけねらっていたんだろう。そのうちに、ふとしたことから、近江屋のせがれ八十助と心やすくなった……」 「そこで、これさいわいと色仕掛けで、まんまとこいつをたらしこんだんですね」 「そやそや、八十助のほうじゃ本気でほれていよったんやが、お百のほうじゃ親のかたき討ちたさの、いちじの方便やったんだっしゃろな」 「まあ、そういうこった。そうこうしているうちに、伊東屋の娘と八十助との縁談がもちあがったから、お百にとっちゃもっけのさいわい、これで近江屋と伊東屋の両方へ、いっときにかたき討ちができるとばかり、いろいろ策を練っているところへ持ちあがったのが、花鳥人形の怪談ばなしだ」 「そこで、腹にいちもつあるあやめは、八十助をそそのかしよって、ああいう狂言をやらせてみせて、縁談をぶちこわそうとたくらみよったんだすな」  そこは草双紙通だけあって、こういうことになると豆六はおおいに察しがよろしい。 「と、いうのはうわっつらだけよ。お百の腹にゃ、八十助さえしらぬもうひとつの裏があったんだ」 「つまり、八十助にお糸を殺させ、そのあとじぶんが八十助を殺して、伊東屋と近江屋の両方へ、いっときにかたき討ちをしようというたくらみだったんですね」 「と、いうことになるな。いや、いかに親のかたき討ちとはいえ、お百という女はよっぽど恐ろしい娘だったよ」  佐七もさすがに慄然《りつぜん》として、おもわずため息をもらしたが、お百のやってのけた仕事から、まだまだ思いもよらぬ結果が起こった。  娘を殺された伊東屋重右衛門、なんとやらもの狂わしく、粗暴になり、はてはお糸を殺したのは、近江屋太左衛門にちがいないと疑いだした。  そのあげく、ある夜、とうとう太左衛門を殺してその家に火を放ち、じぶんも火中にとびこんで、狂い死にに死んでしまったということである。  戯作者《げさくしゃ》柳下亭種員は、この事件によって、『怪談|閨《ねや》の鴛鴦《おしどり》』の版木焼却、なおそのうえに当人は手錠百カ日を申しつけられたが、かれの思いつきが、この奇怪な犯罪を呼んだことを思えば、これまた当然のおしおきというべきだろう。  また八十助に頼まれて、花鳥人形そっくりの生き人形を作った人形師も、きびしい詮議《せんぎ》をうけたそうだが、かれはただ人形をつくっただけで、詳しい事情をしらなかったので、罪はまぬがれたそうだが、これが原因でのちに気が変になったという。     八つ目|鰻《うなぎ》  縁談たなぼた花嫁   ——おまえふぬけじゃあるまいな  池《いけ》の端《はた》仲町のうらだなにすむ青山福三郎という浪人者。  としは三十二、三。もとはどこのご家中かわからないが、わかいに似合わぬ、よくできている人物とあって、近所の評判も悪くない。  ここへ住みついたのは二、三年まえのことで、当座はなにをするでもなく、ぶらぶらしていたが、座してくらえばのたとえ、おいおい困窮の様子をみて、乗りさしたのが佐兵衛《さへえ》という老人。  このひとは、駒形《こまがた》でもなだかい小間物店、梅鉢《うめばち》の主人だが、去年店をむすこにゆずって楽隠居。  つれあいもないところから、お杉《すぎ》という老婢《ろうひ》あいてに暮らしているが、こういうひとにかぎって、世話好きなものである。  福三郎にむかって、手習いの師匠でもしたらどうかとすすめたところが、まんざらでもないあいさつなので、さっそく、自腹を切って造作をする。  みずからさきに立って、弟子《でし》の勧誘をするというわけで、どうやら、手習いの師匠ができあがったが、この福三郎という人物、もとは、ご祐筆《ゆうひつ》かなにかしていたとみえて、まことにみごとな筆跡である。  それに、まえにもいったとおり、いたっておだやかな人物だから、おいおい弟子もふえて、どうやら暮らしがたつようになってもう一年。  こうなると、世話をするほうでも張り合いがある。  佐兵衛さん、こんどはどうでも、おかみさんを持たせようと、このあいだから、とっかえひっかえ候補者を見つけてくるが、どういうものか福三郎、こればかりは、いかにすすめられてもうんといわない。きょうもきょうとて、到来物があるからと、福三郎を隠居所へまねいた佐兵衛さん。 「あきれたね、おまえさんの強情なのには……わかい身そらで、やもめ暮らしは不自由だろうとおもうから、こうしてすすめてるんじゃないか。それとも、青山さん、わたしの世話では、気にいらんというのかな」 「めっそうもない。大恩あるご隠居さんのお世話、不足のあるべきはずはございませんが、とても女房は養いきれませぬゆえ……」 「またあれだ。おまえさんもわからないひとだねえ。あれだけ弟子がついていれば、かかアのひとりやふたり、養いきれぬということがあるもんか。それとも、青山さん、変なことをいうようだが、おまえ、どっか悪いところがあるのじゃないか」 「悪いところをいいますと……」 「いや、おこっちゃいけないよ。これもおまえさんを思うからだ。わたしゃふしぎでならないんだ。なにがって、あの長屋へ来てから、おまえさん、ひと晩だって家をあけたことはない。わかい身そらで、よくしんぼうできると思ってね。わたしなんざ自慢じゃないが、おまえさんの年ごろには、ひと晩だって、女なしにゃ暮らせなかったもんだ」 「それは、ご隠居さんは精力絶倫だから……」 「はっはっは、からかっちゃいけない。それより、おまえさんはどうなのさ。なに、かたわじゃない、りっぱな男だと。あっはっは、そうかそうか。いや、そうだろう。いつか飛鳥山《あすかやま》のお花見で、無法者を三人とって投げた腕まえ、日ごろおとなしいおまえさんだけに、長屋の者もおどろいたり感心したり、いや、能ある鷹はつめをかくすとはこのことだと、わたしまで鼻がたかかった。あの腕まえをみても、ふぬけではないことはよくわかるが、あまりおまえさんが強情だから、つい、変なことを疑ってみたのさ。まあ、ごめんなさいよ。すると、なにかね。おまえさん生娘がのぞみかえ」 「そういうわけでもございません。だいいち、そんなぜいたくをいえた身分でもなし」 「いや、それをきいて安心した。じつはまた、ひとり心当たりができたんだが、ちょっとあの調度類をみておくれ」 「けっこうなお道具でございますな。いったい、どなたのものであろうと、さきほどより、拝見しておりました」 「さあ、それじゃて、それについて話がある。まあ、きいておくれ」  と、佐兵衛はひざをのりだして、 「じつは、わたしにひとりの姪《めい》がある」 「はあ」 「いや、なくなった女房の姪にあたるわけだが、それが、十七のとしに、行儀見習いというわけで、さるお屋敷へご奉公にあがったんだ」 「なるほど」 「お屋敷の名ははばかるから伏せておくが、するとまもなく、大殿のお手がついてな」 「それは、それは……」 「大殿もお文《ふみ》お文とご寵愛《ちょうあい》だ。お文というのが、姪の名まえじゃが、これがまたまことに気だてのよい娘で、大殿をだいじにする。それでまあ、八年のあいだ、ぶじにご奉公をつとめてきたが、この春大殿様が、おなくなりあそばしたについておいとまが出てな」 「なるほど、それは……」 「なにしろ、まだ二十五、これからさきの長い一生を、飼いごろしにするのもふびん、応分のしたくするゆえ、よき縁あらばかたづけてほしいと、まことにものわかりのいいお屋敷でな」 「なるほど、それは……」 「わしももう、八年会っておらんのじゃが、ほかに身寄りもないところから、わしがいっさい引き受けることにして、あのとおり、衣類道具、ほかに大枚の金子まで下げ渡された」 「それはけっこうなお話で……」 「大殿の百カ日も先日すんだが、このたびが新盆《にいぼん》ゆえ、それをすませて、お文もさがってくるはずじゃが、さて、それからの身のふりかたじゃ。いつまでも、ここにおいとくわけにもいかんし、そこで思いついたのが、青山さん、おまえさんのことじゃな、ひとつ、女房に持ってやってはくださるまいか」  たなからぼたもちとはこのことである。青山福三郎、とびついてくるかとおもいのほか、 「いや、お志はかたじけのうございますが、こればっかりは……」  と、例によって煮えきらないから、佐兵衛もムッとしておもわず声があらくなる。 「青山さん、それじゃ、おまえさん、わしの姪《めい》では、気にいらぬといいなさるのか」 「というわけでもございませぬが……」 「そんなら、うんといってくれても……」 「さあ、それが……だいいち、姪ごさまのお気持ちもわかりませず……」 「いや、その心配なら無用じゃ。じつはな、先日、お屋敷から使いがきたとき、姪に手紙をことづけてな、これこれ、こういう殿ごがあるがどうじゃと、おまえの人品骨がら、日ごろの身持ちなど、細大あまさず書いてやったところが、お文の返事というのがうれしいじゃないか。伯父《おじ》さまのよろしいようにって……あっはっは、だからいまごろお文め、見ぬ恋にあこがれているわな」 「これはまた迷惑な」 「なに、迷惑? おまえ迷惑というのか」 「いえ、さようなわけではございませぬが、なんぼなんでも短兵急《たんぺいきゅう》で……」 「あっはっは、これはわたしが悪かった。それじゃこうしよう。お文がかえってきたら、会ってやっておくれ。返事はそれからきこう。それならよかろう」 「はい」  と、福三郎はなま返事で、 「おや、どうやら日も暮れかけました。それではきょうはこれにて」 「青山さん、色よい返事を待っていますぞ。そうそう、到来物があったから、少しじゃが持っておかえり」  いたれり尽くせりの親切だったが、福三郎はなぜか浮かぬかおで、蒼惶《そうこう》として長屋へかえって、ふかい思案のため息である。  きょうはお盆の十三日、あちこちの軒先で、お迎え火をたく用意によねんがなかったが、それから四日めの十六日。  送り火のあと哀れなり虫の声  で、お文もさぞや、いまはなき大殿の面影をしのんで、しみじみと送り火の煙にむかって、手をあわせたことだろうが、さて、その翌日の十七日の晩、池の端仲町の隠居所では、たいへんなことが起こった。  到来物|越後《えちご》みやげ   ——死体の手には印籠が握られていた  かねてよりごひいきになっている与力神崎甚五郎に呼び出されて、佐七がとるものもとりあえず、八丁堀《はっちょうぼり》へ出向いていったのは、それからひと月以上もたった、八月下旬のことである。 「佐七か。よくまいったな。そちを呼んだのはほかでもない。おまえも知っているだろうが、ほら、七月十七日に起こった、池の端仲町の隠居殺しの一件……」 「へえ、あの佐兵衛さんなら、いっしょにお白州へも出たなかで、まことによいおひとでしたが、こんどはまたとんだことで……」 「それよ、それについて、おまえにまたひと働きしてもらいたいのだが」  佐七はふしぎそうに甚五郎の顔をみて、 「しかし、だんな、あの下手人なら、とっくのむかしにつかまったはずで……浪人者の青山福三郎……」 「いかにも、鳥越の茂平次のはからいで、いちはやくあげることはあげたが、どうも解《げ》しかねるところがある。青山福三郎という人物、とてもそんな悪党とはみえぬし、また近所のものも、なにかのまちがいであろうと申している。そこで、もういちど、洗いなおしたいとおもうのだが……」 「それゃだんなのおことばなら、働いてみてもよろしゅうございますが、青山さんがあげられたのは、いったい、どういうわけなんで」 「それはこうだ。まあ、聞け」  佐兵衛と福三郎のあいだに、ああいう話があってから五日めの朝のこと、佐兵衛のうちが、いつまでたってもあかないので、近所のものが怪しんで、裏へまわると勝手口があいている。  そこで、いよいよ怪しんで、家のなかへ踏み込むと、女中べやには、お杉《すぎ》というばあやがしめ殺されており、座敷では、佐兵衛がむごたらしゅう殺されていた。  そこで大騒ぎになり、鳥越の茂平次、別名、海坊主の茂平次が駆けつけたが、しらべてみると、佐兵衛はひとつき、乳のあたりをえぐられて、虚空をつかんだその指に、(印籠(いんろう)印籠《いんろう》をひとつ握っている。  その印籠というのが、福三郎の持ちもので、近所のものはみんな知っていた。  そこで、それっとばかり、福三郎のすまいへ踏み込んだが、いよいよいけない。  福三郎の衣類のたもとに、べったりと血がついている。それのみならず、机の下から、梅鉢《うめばち》の紋のついたふろしき包み、ひらいてみると小判が三枚。  この梅鉢というのは、佐兵衛の家の定紋だから、こうなってはもう福三郎の嫌疑《けんぎ》は、のっぴきならぬものになってしまった。  そこへもってきて、近所のものの証言によると、五日まえの夕刻、佐兵衛と福三郎が、なにかいい争っていたというので、海坊主の茂平次はうむをいわさず、福三郎をあげてしまったのである。 「なるほど。ところで、青山さんはなんといっているんです」 「それがおかしい。十三日の夕刻、福三郎は隠居所へいったが、そのとき佐兵衛が、到来物があるから持っていけと、包んでくれたのがそのふろしき包み。福三郎はなにげなくもらってかえったが、そのままほおっておいたところ、十七日の晩、なにげなく包みをあけると、おもいがけなく、小判が三枚。そこで、これはなにかのまちがいだろうと、隠居所へかえしにいったというが、それからあと、話がなんだか妙になるのだ」 「妙になるとは……?」 「福三郎がおとずれたのは、夜の四つ(十時)ごろのことだったそうだが、おとなうと、奥からわかい女が出てきた。福三郎はそれを、てっきり佐兵衛の姪《めい》のお文であろうと思ったそうだ」 「そうそう、佐兵衛さんの姪が、どこかお屋敷奉公をしていて、それがちかぢかに、宿下がりをするという話でしたね」 「それよ。福三郎も佐兵衛から、その話をきいていたから、てっきりそれだとおもった。そこで、ていねいにあいさつをのべて、まちがいのよしを話し、三両の金をかえそうとすると、あいては伯父さんに聞いてくると、いったん奥へさがったが、しばらくして出てくると、どうしてもその金はうけとれぬ。くわしい話はあしたまたきてくれというのだそうだ。そこですったもんだと、金をやったり押しかえしたり、押し問答をしていたが、まさか投げつけてかえるわけにもいかず、やむなく、ふたたび持ちかえったと、こういうんだ」 「なるほど、青山さんの話がほんととすると、怪しいのはその女。そのときすでに、佐兵衛さんは殺されていて、女がその血を、青山さんのたもとになすりつけたのじゃありますまいか」 「ふむ、そういえばいちおう筋はとおるが、いかにうかつな男でも、じぶんのたもとに、血を塗られるのを知らぬというのはおかしい」 「そういえばそうですが……で、あいての女というのは、いったい、どんな女でしたえ」 「それがまたおかしいんだ。福三郎のやつ、てんで女をおぼえていない。としは二十五、六だろうが、顔はおぼえぬ、姿かたちも忘れた……と、これではどう考えても、いつわりを申しているとしかおもえぬではないか」 「しかし、うそをつくならもっともらしく、女のものごし風体をいいそうなもんですがね。ところで、福三郎の話をほんととすると、女はいったい何者でしょうねえ」 「それよ、佐兵衛の姪の奉公先は、番町の鈴木|主計之介《かずえのすけ》どのとわかった。三千石のお旗本《はたもと》。ご大身だな。そこの先殿のご寵愛《ちょうあい》をうけたのだそうな。そこで番町の屋敷にさぐりをいれたが、外聞があるからはかばかしくはこたえない。しかし、お文はもうそこにはいないらしいのだ。してみると、青山福三郎に会うたのがお文かもしれぬ。だが、そうすると、お文が伯父を殺したのか、そして、それっきり姿をくらましたのか……」 「なるほど、いりこんでますねえ。ところで、なにか盗まれたものは……」 「それよ、お文の衣類調度類がさげわたされたとき、三百両の金がついていたそうだ。これは梅鉢の主人、つまり佐兵衛のさがれ、藤十郎《とうじゅうろう》の申したてゆえ、まちがいはないと思うが、その金がどこにもない。盗まれたといえば、その金が盗まれたのだろうな」  佐七は黙ってかんがえていたが、 「ときに、だんな、さっきの話ですがねえ。佐兵衛と福三郎がいさかいをしていたという……それについて、福三郎はなんといってるんです」 「いや、福三郎はそれについちゃ、はっきり返事をしないんだ。いさかいではござらぬ。たわいもない話であったと、いくら尋ねてもとりあわない。だいいち、いさかいなどしたんなら、かえりに到来物などくれるはずはないという。なるほど、これは一理あるな」 「到来物というのはなんでございました」 「それが妙なもので、越後みやげの八つ目うなぎよ」 「へえ、八つ目うなぎ……?」  佐七はおもわず、目をまるくした。  夜鷹そば卯兵衛   ——お玉が池の親分じゃありませんか 「と、いうわけで、だんなのお声がかりで、池の端仲町の一件を、もういちど蒸しかえすことになった。おまえたちも、そのつもりで働いてくれ」  それからまもなく、八丁堀からかえってきた佐七の話に、辰と豆六、喜んだの、喜ばないのって。  それもそのはず、海坊主の茂平次といえば日ごろから、佐七を目のかたきにしている憎まれ役。  佐七とてがらをきそうのはよいとして、そのやりくちがきたないから、海坊主ときいただけでも、辰と豆六、業が煮えてくるのである。 「親分、それゃアやろうじゃありませんか。海坊主のやつ、隠居ごろしの下手人を、いちはやくあげたについて、ちかごろ吹くわふくわ。鼻息のあらいったらねえそうですぜ」 「そやそや、わてもその話をきいて、胸がムカムカしてたとこや。こら、なにがなんでもほかから下手人をあげて、海坊主の高慢の鼻、ヘシ折ったろやおまへんか」  海坊主の高慢の鼻ヘシ折るためなら、豆六め、にせに下手人でもデッチあげかねまじきふぜいである。  佐七はにが笑いしながら、 「まあまあ、おまえたちみてえにそうむやみに鳥越の兄いにこだわっちゃいけねえ。こんなばあい、偏見をもつのがいちばんこわい」 「だけど、おまえさん」  お粂までそばからひざをすすめて、 「あれから、ひと月以上もたついまになって、神崎のだんなのようなかたが、そういうことをおっしゃりだしたからには、なにかよほどふにおちないことがおできになったんじゃないかねえ」 「お粂、それよ。だんなはああいう聰明《そうめい》なかただから、ハッキリとはおっしゃらなかったが、おれもお話をうかがっているうちに、おやっと思ったことがある。それでお引き受けしてきたんだ」 「親分、それで、どっちから手をつけていきます」 「さしあたり、梅鉢の店をさぐってもらいたい」 「佐兵衛がせがれにゆずった店だんな」 「そうよ。駒形《こまがた》の梅鉢といえばなだかい老舗《しにせ》だ。まさかとおもうが、たたけばどんなほこりがでねえともかぎらねえ。ひとつ、よく洗ってみてくれ」 「へえ、承知しました。それだけで?」 「いや、もうひとつある。ついでに池の端仲町へまわって、佐兵衛のことを調べてくれ。佐兵衛というのはおれもよく知っているが、気のいい、世話好きのじいさんだったが、そういう気っぷが、あだになったんじゃねえか。そこんところを、よく気をつけてみてくれ」 「承知しました。ところで、親分は?」 「おれは、お文が奉公していた番町の鈴木の屋敷をさぐってみる。あれからひと月以上になるのに、お文のゆくえがわからぬというのがふしぎだ。まさか、お文がだいじな伯父を殺したわけじゃあるまいに」 「そうですか。それじゃ、晩がた……豆六、いこうや」 「おっと、合点や」  辰と豆六がとびだしたあとから、お玉が池を出た佐七が、やってきたのは番町の鈴木の屋敷。なるほど、三千石のりっぱなお屋敷だ。  佐七はぶらぶら屋敷のまわりを歩いてみたが、目についたのは、鈴木の屋敷の通用門の、ちょうど正面にあるなわのれんである。  このへんは武家屋敷が多いから、折り助どもあいての店にちがいない。  これさいわいと佐七がのれんをくぐると、店には客がひとりもいなくて、うすぐらい中仕切りのおくから、 「いらっしゃい」  と、顔を出した亭主が、佐七をみると、 「おや、これは、お玉が池の親分さんじゃありませんか。これは、まあおめずらしい」 「はてな、おまえさんはだれだっけ」 「いやですよ。親分、卯兵衛《うへえ》ですよ。ほら、いつかひとかたならぬお世話になった……」  いわれて佐七はポンとひざをたたいた。  卯兵衛というのは、もと神田へんをまわっていた夜鷹《よたか》そばだが、おもわぬ事件にまきこまれて、あやうく罪に落ちようとするところを、佐七の働きで助けてやったことがある。 「おお、とっつぁんだったのか。それじゃおまえ、こんなところへ店を持ったのか。これゃおめでとう」 「ありがとうございます。いちど親分にもあいさつにあがらなきゃとおもいながら、つい、忙しいもんですから……」  卯兵衛はてばやく、酒さかなをととのえて持ってくると、そのまま佐七のまえに腰をおろし、 「親分、なにもありませんが、お口よごしに……」 「や、これはすまねえな。そうか。それじゃ一杯ごちそうになろうか」  卯兵衛は酌《しゃく》をしながら、佐七の顔をみなおして、 「親分、このへんになにかございましたか。まさか、気散じのそぞろ歩きじゃありますまい」 「とっつぁん、お手の筋よ。ちとめんどうな筋で、どこから手をつけていいか弱っている。とっつぁん、なにかいい知恵はねえか」 「へえ、めんどうな筋とおっしゃいますと、親分、もしや、おむかいのお屋敷のことじゃ……」 「とっつぁん、すると、鈴木の屋敷に、なにか変わったことがあった様子かえ」 「いえ、なに、わたしどもに、お屋敷のことはわかりませんが、ちかごろ、若党の田宮さんのご様子が、なんとなく変わっておりますから」  それから卯兵衛は鈴木の屋敷について、つぎのように説明した。  こういうお屋敷町に住んでいて、折り助などをあいてにしていると、いろいろと内情がわかるものである。  旗本屋敷などとすましていても、ずいぶんいかがわしい屋敷もあるが、鈴木の屋敷にかぎってそれがない。  殿様はものわかりのいいかただし、ご家来衆も行儀がいい。  若党や折り助などには、とかく渡りものの多いなかに、鈴木の屋敷にかぎって、筋のとおったものばかりである……。  と、卯兵衛はほめたあげく、 「田宮さんなどは、代々お屋敷につとめている家柄で、ごく堅いひとですが、酒が好きなもんですから、ご用のひまなせつなど、よくごひいきになってるんですが、それがちかごろどういうわけか、なにか屈託ありげに、しじゅう、屋敷を外に出歩いていられるようで」 「いつごろからのことだね、それは……」 「へえ、ひと月ほどまえからでございます」 「とっつぁん、ひと月ほどまえといやア、先殿様がご寵愛《ちょうあい》になったおかたがおひまが出て、宿下がりをしたということだが……」 「お文さまでしょう。いえ、お目にかかったことはありませんが、おうわさはきいております」 「そうそう、そのお文さんだが、そのひとはほんとに、宿下がりをなすったのかね」 「なさいましたとも。げんに、わたしもこの目で、おかごが出ていくところを見ました。先月の……そうそう、お盆のころでした。そのおかごを送っていったのが、いまいった田宮さんなんですが、親分、それについて妙な話があるんですよ」  卯兵衛が声をひそめて、なにかいおうとしたときである。  色の白い、わかい侍がはいってきたが、それをみると、卯兵衛は、 「おや、田宮さん、いらっしゃい」  若党の田宮は、のれんのあいだから佐七の風体をみるとふっと、まゆをくもらせて、そのまま引き返そうとする。  卯兵衛はあわてて、 「あ、ちょっと、ちょっと、田宮さん」  と、追っかけて出て、なにやら押し問答をしていたが、やがて田宮をひっぱってきて、 「親分、ちょっと、顔をかしてください。ここでは話もできませんから、むさくるしいところですが、ちょっと奥まで、田宮さんもどうぞ」  中仕切りを奥へとおると、ちょっと小意気な座敷である。  卯兵衛は女房にいいつけて、てばやく酒さかなの用意をさせると、佐七を田宮にひきあわせて、 「親分、わたしの話というのは、この田宮さんのことですが、田宮さん、あなたの口から話してください。いまもいったとおり、お玉が池の親分なら、けっして心配はいりません。ね、親分、そうでしょう」  佐七がだまってうなずくと、田宮はまだもじもじしていたが、おぼれるものはわらでもつかむという心境が、とうとう重い口をひらいて、語りだしたところによるとこうである。  かご抜け屋敷   ——青山福三郎とみずから名のって  お文の宿下がりは、先月の十七日だった。  鈴木の屋敷では世間ていをはばかって、お文が屋敷を出るのを、夜にはいってからにするようにとのことだった。  だから、お文がおかごをもらって、通用門を出たのは、六つ半(七時)ごろのことで、お供は田宮|寅之介《とらのすけ》がただひとり。  ところが、田宮は佐兵衛の隠居所を、池の端仲町ときいているだけで、詳しいことは知らなかった。  お文も知らず、お陸尺《ろくしゃく》も知らなかった。  池の端仲町へついたころは、むろん、日はもうとっくに暮れて、あたりはまっくらである。  一行は道にまよって、途方にくれていたが、そこへ駆けよってきたのが、二十前後の小間使いらしい女であった。 「番町のお屋敷からでございますか」  と、こごえできくので、そうだと答えると、 「ご隠居さまのおいいつけで、お迎えにまいりました。どうぞこちらへ……」 「あっ、ちょっと待ってください」  そこまで聞くと、佐七はいそいで話をさえぎって、 「それじゃ、その女は佐兵衛さんの使いで迎えにきたというんですね」 「そうです。そのときはそう思ったのです」 「いったい、それはどんな女でした」 「さあ、それが……」  と、田宮は顔をしかめて、 「暗い夜道のことですから、はっきりした顔かたちは……ただ、二十から二十二、三までの女とおぼえております」 「それじゃ、こんどお会いになっても、おわかりになりますまいねえ」 「さあ……」  田宮が自信なさそうに、首をかしげた。 「いや、ようがす。それじゃあとをおつづけなすって」  道に迷うているところを、迎えのものにあったのだから、田宮はひどくよろこんで、導かれるままに、女のあとからついていった。  女はくらい夜道を五、六町ひきずりまわしたあげく、ある一軒家にかごをひっぱりこんだ。 「その家というのが、いかにも物持ちの隠居所といった構えでしたから、わたしは一も二もなく、佐兵衛どのの隠居所だと思ったのです」  かごを玄関まで案内すると、女はすぐにおくへかけこんだが、すると、それと入れちがいに出てきたのは三十二、三の、一見して浪人者とわかる風体の男であった。 「これはこれは、お早いお着きでございました。佐兵衛があいさつに出るべきところ、あいにくかぜのきみでふせっておりますので、拙者がかわってごあいさつを申し上げます。お文どのはたしかにお受け取り申す」 「そういうおてまえは?」 「青山福三郎と申して、佐兵衛どのとはご昵懇《じっこん》におねがいしているもの。お文どのにおききくだされ。きっとご存じのはず」  お文にきいてみると、知っているという返事に、田宮も安心してお文をひきわたし、玄関からそのまま引き返してきたのである。  それが、先月の十七日の夜のできごとだった。  佐七はその話をきいてひどく興を催した。 「その男はじぶんで青山福三郎と名のったんですね」 「はい、たしかに」 「いったい、それはどんな男でしたか」 「年ごろはまえにもいったとおり三十二、三、やせぎすの、色の白い、ちょっとよい男ぶりでしたが、なんとなくすさんだ感じがいたしました。しかし、これはのちに思いあたったところで、そのときは、べつに気にもとめず……」 「その男にこんど会ったらわかりますか」 「それはわかると思います。まえの女中とちがって、その男に会ったのは、わりと明るい玄関先でしたから」 「なるほど。では、そのあとをお話しなすって」  田宮寅之助はそれで使命をはたしたものとおもいこみ、屋敷へかえってくると、その旨をご用人までとどけておいた。  そして、それきり、このことを忘れていたのである。  ところが、それから二、三日して、奉行所から鈴木の屋敷に内密の連絡があり、佐兵衛が殺されたこと、お文がゆくえ不明になっていることを知らせてきたうえ、お文ははたして宿下がりをしたかという問い合わせがあったから、おどろいたのは鈴木の屋敷である。  そこで、田宮寅之助があらためてご用人のまえに呼びだされた。  そして、奉行所から知らせてきた佐兵衛殺しの一件をいろいろ検討してみたが、すると青山福三郎という人物の当夜の行動と、田宮が会った男のあいだに、なんとなく、くいちがいがかんじられる。  そこで、寅之助はひそかに池の端へおもむいて、佐兵衛の殺された家というのをみてきたが、それはこのあいだお文を送りとどけた家と、似ても似つかぬ家だった。 「なるほど。それで、あなたがお文さんを送りとどけた家というのは?」 「さあ、それです。じぶんがこのあいだ、お文さまをとどけた家が、佐兵衛どのの隠居所でなかったことがわかると、わたしはびっくりぎょうてんしまして、あらためて、あの夜の家をさがしてみました。なにしろ、あのときは、暗い夜道をあっちこっちとひっぱりまわされたものですから、なかなか見当がつきませんでしたが、やっと捜しあてた家というのは、昨年来あき家になって、住むひととてないとやら……」  寅之助ははじめて悪者の手にかかってお文をあざむきとられたことをさとった。  そこで、いそいで屋敷へかえってくると、用人にその旨を復命し、じぶんは責めをおうて切腹しようとした。  しかし、殿のお声がかりで、切腹はおもいとどまるよう、そして悪者を見つけだし、お文をぶじに救い出すよう、ただし、くれぐれも屋敷の名が出ぬようにとの、ありがたいおさたがあったので、それ以来、毎日外を出歩いて、あの浪人をさがしているが、いまだにめぐりあわないのであると、寅之助は悄然《しょうぜん》としてうなだれた。  割り下水の化け物屋敷   ——時次郎は飲む打つ買うの三拍子 「いや、田宮さん、よく話してくださいました。そうですか、そんなことがあったのですか。ちっとも知りませんでした。八丁堀でもそのことはまだ知らないんでしょうね」 「はい、なにぶんにも、お屋敷の名が出てはならぬというので、内密にしているものですから……おまえさんもそのつもりで……」 「ようがすとも。だれにもしゃべりません。しかし、そういうことがわかってみれば、こっちも探索がしやすいというもんです。田宮さん、これはあっしにまかせてください。きっと、その浪人者を見つけだして、お文さんの居どころをつきとめてごらんにいれます」 「なにぶんにも、よろしくお願いいたします」 「とっつぁん、おまえにも礼をいうぜ。よいことを聞かせてくれたな」 「親分、お役にたってけっこうでした」  卯兵衛はこれでいくらかでもご恩返しができればとおもっているのである。佐七に礼をいわれて、いかにもうれしそうだった。  その晩、佐七がお玉が池へかえって待っていると、ひと足おくれて、辰と豆六も帰ってきた。 「親分、どうもいけません。梅鉢《うめばち》のほうは脈がなさそうですぜ」 「うむ、まあ、そうだろうな。しかし、念のためだ、ひととおり聞かせてくれ」 「へえ」  そこで、辰と豆六が調べてきた梅鉢の内幕というのはこうである。  梅鉢のいまの主人というのは、藤十郎といって四十三、女房のお梅とのあいだには、二十のむすこをかしらに、三人の子どもがある。  夫婦も子どももよくできた人物だと、近所でもひどく評判がいい。  こんどの佐兵衛の横死についても、家内一同たいへんな嘆きで、あととむらいに余念がない。  主人がそういう調子だから、奉公人もみなしつけが行き届いていて、男でも女でも梅鉢で仕込まれたといえば、それだけで、世間の信用を博するというくらいである。 「それというのが、殺された佐兵衛さんの、先々代までは武士だったそうです。それが、どういう事情があってか、大小を捨てて町人になり、いまの場所に小さな店をひらいたんですが、それがうまくいって、あのとおり大きくなったんですね。それですから、家のものでも奉公人でも、しつけはいたって厳重で、そのかわりまじめにつとめさえすれば、ほかよりはよっぽどよくしてくれるそうです」 「ふうむ。すると、あの佐兵衛さんというのは武士の流れか。どうりで、浪人者をかわいがるんだな」 「さよさよ。それに、なくなった佐兵衛のつれあい、お仙《せん》ちゅうのが、身分はひくいが旗本《はたもと》の娘やったそうだす。それで、姪《めい》をお屋敷奉公に出しよったんやな」 「なに、それじゃ佐兵衛さんのおかみさんというのは、お旗本の出か。それで、その家はいまどうなっているんだ」  佐七はなんとなく胸騒ぎをおぼえて、おもわずひざを乗り出した。 「それがね、つぶれたも同然だということです。お仙さんの家は片岡《かたおか》というんですが、兄妹《きょうだい》が三人あって、いちばんうえの男があとをつぎ、つぎが女でやっぱり貧乏旗本のところへかたづいて、そこでできたのがお文です。お文の両親は、お文の小さいときに死んでしまって、それで家もつぶれたので、お文は番町のお屋敷へあがるまで、梅鉢の店でそだてられたそうです。お文のおふくろの妹がお仙で、これが佐兵衛さんのところへかたづいてきたんですね」 「なるほど。それで、片岡の家はどうなっているんだ」 「それが、親分、いけまへん。お仙の兄も兄嫁も死んでしもうて、いまではお仙にとっては甥《おい》にあたる時次郎ちゅう男の代になってまんねんが、この時次郎というのが、どだい手におえん極道もんで、酒はのむ、ばくちはうつ、ゆすりたかりはお手のもんちゅうわけで、いまに片岡の家もおとりつぶしやろちゅう話だす」  それをきくと、佐七はキラリと目を光らせて、 「そして、その時次郎というのは、いくつぐらいだ」 「三十二か三だろうという話です。ちょいといい男ぶりだそうですが、なにせ身持ちが身持ちだから、梅鉢の店でももてあまして、なるべく寄せつけぬようにしてるって話です」 「屋敷はどこだえ」 「本所の割り下水だそうですが、いつも、なかまのぐれん隊がたむろして、酒をのむやら、ばくちをうつやら、けんかのたえまがねえから、近所でも片岡の化け物屋敷といやア、おじけをふるってるって話です。しかし、親分、いかに時次郎が悪いやつでも。まさか叔父《おじ》にあたる佐兵衛さんを……」 「しかし、それゃあなんともいえねえぜ。辰、豆六、きけ、こういう話があるんだ」  そこで、佐七が田宮寅之助から聞いた話を語ってきかせると、辰と豆六はいきをのんで、 「それじゃ、時次郎がお文さんを……」 「じゃねえかと思うんだ。時次郎ならお文の奉公先も、お文が宿下がりをすることも、知っていたにちがいねえ。そこで、途中で待ち伏せして……」 「だけど、親分、そうすると、その女ちゅうのは何者だっしゃろ。小間使いに化けて、田宮という若党をだましたやつは……」 「さあ、それはまだわからねえが、時次郎がそんなやつなら、いくらでも莫連女《ばくれんおんな》を知っているにちがいねえ」 「そうすると、親分、青山さんが金をかえしにいって、隠居所で出会った女というのも、ひょっとすると、そいつじゃ……」 「おおかたそんなことだろう。お文をあき家へつれこんで、身ぐるみはいだそのきものを着て、そいつがお文に化けて、隠居所へ乗りこんだんだ。なにしろ、佐兵衛さんは七、八年も姪《めい》に会ってねえんだから、だませるとおもったんだろう。それがあばかれそうになったもんだから、おもいきってやっつけやアがったにちがいねえ。とにかく、辰、豆六、あすは割り下水の、片岡の屋敷というのをさぐってみようじゃねえか」 「おっと、合点だ。しかし、親分、あいてが時次郎とすれゃあ、お文はただのからだじゃすんでいませんね」 「そやそや、お文と時次郎はいとこどうしや。ひょっとすると、時次郎のやつ、まえからお文に気があったんやしれまへんぜ」 「ふむ、あいてが時次郎にしろ、そうでねえにしろ、あれからもうひと月あまりもたっているんだ。生きているとしたら、お文さんはもう、きれいなからだじゃあるめえな」  佐七はそういって、いたましそうにため息をついた。  秋の夜ばなし大惨劇   ——時次郎は情婦お吉とさしちがえて 「親分、わかりました。片岡の屋敷はこの横町だそうです」  その翌日は明けがたから、こまかい雨が霧のように降りしきっていた。江戸時代の八月下旬といえば、いまの九月のおわりか、十月のはじめに相当する。いちばん天候のさだまらない季節である。  雨が降ると、このへんは足駄《あしだ》を吸いとられそうなぬかるみになる。  辰がどろをはねながらかえってくるのを橋のたもとで待っていた佐七は、雨でけぶったお舟蔵のほうを気にしながら、 「そうか、わかったか。しかし、まあ、もう少し待っていようよ。もうそろそろくるじぶんだ」  と、佐七はしきりに、雨のむこうをみながら、 「それで、片岡の屋敷はどうなんだ。時次郎のほかにだれかいるのか」 「いや、それがあきれたもんで、やせても枯れても旗本とあらば、たとえ小普請組にしろ、仲間《ちゅうげん》のひとりやふたりはいなきゃアならねえはず。ところが、片岡の屋敷にゃ、それがひとりもいねえんだそうです」 「それじゃ、時次郎はひとりで住んでいるのか」 「いえ、それがね、半年ほどまえから、変な女をひっぱりこんで、いっしょに住んでいたそうです。女は年ごろ二十三、四だが、小股《こまた》の切れあがった、ちょっといい女だそうで、それがすっかり女房気どりで、時次郎といっしょに暮らしていたそうです。ところが、その女もここひと月ほど、姿がみえねえんだそうで」  佐七はまゆをひそめて、 「お文をかどわかしてきたので、じゃまになるその女をたたき出したんじゃねえのか」 「そうかもしれません。しかし、ふしぎなことには、お文らしい女を見かけたものは、ひとりもいねえらしいんです。だから、あっしの思うに、時次郎のやつ、さんざんお文をおもちゃにしたあげく、どこかへ売りとばしちまったんじゃありますめえか」 「そんなことかもしれねえな」  佐七は顔をくもらせて、ふかいため息をもらしたが、そのとき雨のむこうから、急ぎあしでやってくるふたりづれの姿がみえた。  豆六に案内された田宮寅之助である。 「おお、佐七どの、なにか心当たりがついたそうですね」  寅之助はいきをはずませている。 「いや、まだはっきりしたことはわかりませんが、だいたい、そうじゃないかと思いましてね。それでひとつ、おまえさんに見定めておいてもらいたいとおもいまして……」 「承知しました。そして、あいてはどこにいるんです」 「いま、ご案内いたしましょう」  片岡の屋敷は、堀割りを背にした、いかにも化け物屋敷然とした古屋敷だが、それでもお長屋ではなく、敷地も二百坪くらいはあるだろう。  表門はしまっているので、裏へまわると、勝手口からだしぬけに、折り助らしい男が、血相かえてとび出してきた。  折り助は出あいがしらにぶつかった佐七の風体をみると、ぎょっとしたように立ちすくんだが、すぐ顔をそむけて、すたすたと雨のなかをいきすぎようとする。 「おい、ちょっと、兄い、待ってくれ」  佐七に目配せされて、辰がそう呼びとめると、折り助はいきなりばらばらと、どろをはねあげて逃げだした。  辰と豆六がすぐ追いついて、左右から腕をとらえながら、 「おい、いやだぜ、兄い、なにもこちとらのつらを見たからって、逃げ出さなくてもいいじゃねえか。まあ、おとなしくこっちへ来いよ」 「兄い、おいら、なんにも知らねえんで。ほんとにおいら、なんにもしらねえんで。いま来たばかりだから、おいら、なんにも知らねえんで」  あんがいいくじのない男とみえて、折り助は辰と豆六に手をとられると、がたがたとふるえている。  佐七はきらりと目を光らせると、 「おい、兄い、この屋敷になにかあったのか」 「親分、おいら、ほんとになんにも知らねえんで。雨であんまりたいくつだから、久しぶりに遊びにきたんです。そしたら……」  と、折り助はくちびるまで土色にして、がたがたとふるえている。  佐七は寅之助と顔見合わせたが、 「かまわねえから踏みこんでみましょう。辰、豆六、そいつを逃がすな」  勝手口からなかへはいると、ひろい台所に仲間べや、むろん、ここなんねん、仲間などいたことのないへやは、畳もぼろぼろに古朽ちて、雨漏りのするなかに、白いきのこがいちめんにはえている。そこを通りぬけると、おもやの内玄関が、あけっぱなしになっている。  佐七はそこからなかへ踏みこんだが、雨戸をしめきった家のなかは、どこもかしこも、あなぐらのように薄暗くて、カビくさいにおいのなかに、なにやら異様な異臭が鼻をつく。  佐七はギョッとしたように、片そでで鼻をおおうと、ひとつひとつ、ふすまや障子をひらいていったが、あの異様な臭気はますますつよくなるばかり、いまにも吐き気を催しそうである。  そのうちに、いちばん奥の座敷をのぞいたとたん、佐七はそこに立ちすくんでしまった。 「辰、豆六、雨戸をあけてみろ!」  佐七の声はしゃがれていて低かった。 「へ、へ、へえ……」  辰と豆六が雨戸をひらくと、そこは八畳と六畳のふた間つづきになっており、八畳のほうで酒盛りでもしていたのか、さらや小ばちや一升どくりが、雑然乱然と散らかっているなかに、いちめんの血しぶきである。  むこうの六畳には夜具がしいてあって、まくらがふたつ、油がきれたのか行灯《あんどん》の灯《ひ》も消えていたが、その行灯も夜具もまくらも、まっかな血を浴びている。そして、その血のなかに、寝まきすがたの男と、長じゅばんいちまいの女が、めいめい、血にぬれた刃物を持ったままたおれていた。  そして、あの異様な、嘔吐《おうと》をもよおしそうな臭気は、そのふたつの死体から発するのである。 「いったい、こ、これゃどうしたんだ」  佐七があとをふりかえると、 「おいら知らねえ。おいら、なんにも知らねえんで。さっきぶらりとやってくると、内玄関があいているんで、なにげなくはいってくると、このありさまなんで、おいら、なんにも知らねえんです」  折り助は辰と豆六に手をとられたまま、あおくなってふるえている。 「だれもおまえが知ってるたあいやアしねえ。これゃアきのうきょうのできごとじゃアねえ。少なくとも三日や四日はたっている」  死体の腐乱状態からいって、あるいは、それ以上たっているかもしれないが、さりとて、相好のみわけもつかぬというほどでもなかった。 「あのふたりはだれだ。男はここの主人か」 「へえ、だんなの時次郎さんと、おかみさんのお吉つぁんで」  佐七は田宮寅之助のほうをふりかえって、 「田宮さん、ふたりの顔をみてください。たぶん、おまえさんには見おぼえがあろうとはおもうが……」  寅之助はふたりの顔をあらためて、すぐ、力強くうなずいた。 「まちがいございません、男はたしかに、みずから青山福三郎と名のった人物、女のほうは迎えにきた小間使いにちがいございません。しかし、だれがこのふたりを殺したのでございましょう」 「いや、これは、ひとに殺されたんじゃありませんね。ふたりとも、血にぬれた刃物を握っているところといい、この場のありさまといい、たがいに切りあって、両方とも命をおとしたんでしょうね。辰、豆六、ふたりの死体をよくあらためてみろ。あ、ありゃなんだ!」  佐七ははじかれたように、押し入れのほうへふりかえった。  押し入れのなかから、かすかなうめき声がきこえるのである。  それをきくと、佐七はつかつかと押し入れのまえへ歩みより、ふすまに手をかけ、がらりとひらいたが、そのとたん、なかからころげ出したのは、高手小手にしばられて、口にさるぐつわをかまされた女であった。 「あ、お文さま」  寅之助は女の顔をみとめみるなり、いそいでそばへ駆けよったが、あわれお文は幽霊のようにやせほそって、 「お文さま、わたしでございます。田宮寅之助でございます」  と、寅之助のさけぶことばさえも聞きわけかねるらしかった。  佐七はお文のそのようすをみると、暗然として目をそらしたが、そのときである。  辰と豆六がどぎもを抜かれたように、すっとんきょうなさけびをあげたのは……。 「わっ、お、お、親分、こ、こいつは女じゃねえ。こいつはりっぱな男ですぜ」  その声に、女の死体をふりかえった佐七は、おもわず大きく目をみはった。  時次郎と夫婦同然にくらしていたその女は、そのじつ、女ではなく男であった。  はだけた長じゅばんのすそのあいだから、露出しているそのものは、まぎれもない男の肉体の一部ではないか。  地獄絵巻き三つどもえ   ——お文どのを傷者とは思いませぬ——  時次郎とあの奇怪な女装の男が死んでしまったいまとなっては、くわしいことは知るよしもない。  しかし、時次郎のなかまのぐれん隊や、その後、心身回復したお文の話に、佐七が想像をくわえたところによると、だいたい、つぎのような奇怪な物語になるらしい。  あの奇怪な女装の男は、お嬢の吉弥《きちや》といって、いまのことばでいえば、変質者的不良少年だった。  女に化けると二十三、四の年増《としま》にみえるが、そのじつ、かれはまだ十八歳の少年だった。  吉弥は妙な少年で、年ごろになっても、女にいっこう興味をおぼえず、女の立場になって男にはだをゆるすことに、無上のよろこびを感ずるような変質者だった。  十五、六のじぶんから、かれは髪を長くのばし、すっかり女になりきって、転々として男から男へと渡りあるいたが、そのうちになじんだのが時次郎である。  すさみきった生活をしていた時次郎は、このいっぷう変わった愛欲の対象をえて、ひどくめずらしがった。  吉弥も欲得はなれて、時次郎にうちこんだ。  ふたりはまるで夫婦気どりで、この不自然な性生活にただれきっていた。  ところが、そこへ時次郎の耳にきこえてきたのが、お文宿下がりのうわさである。  お文こそは、時次郎がかくまで身を持ちくずした原因をなす女なのである。  お文と時次郎は、六つちがいのいとこどうし、時次郎はお文にほれて、なんとか嫁にしようと苦心したが、そのあいだにたって、断固として反対したのが佐兵衛である。  そのころから、時次郎の素行のおさまらぬのに手をやいていた佐兵衛は、この結婚に反対したばかりか、お文を時次郎から遠ざけるために、鈴木の屋敷に奉公にだしてしまった。  時次郎がやけをおこして、ますます身を持ちくずしていったのは、それからのことである。  それから八年、どろ沼のような、無軌道な生活のどん底に沈湎《ちんめん》していた時次郎の胸にも、お文に対する思慕の情は、埋もれ火のようにくすぶりつづけていた。  そのお文がおひまをもらって、宿下がりをするときいて、ある日、時次郎は佐兵衛の隠居所を訪れた。  そして、いままでの生活をいっさい清算するから、お文を嫁にもらいたいと申し入れた。  しかし、佐兵衛はかれのことばを信用しなかった。お文には青山福三郎という婿がきまっているから、けっして手出しをしてはならぬと、にべもなくはねつけた。  時次郎のいかりと恨みは、そこであらためて、火のように燃えあがったのである。  かれは変質少年の吉弥をかたらい、お文のかごをみちに擁して、まんまとこれをうばいとった。  そのとき、お文の衣装をはぎとり、お文の身代わりとなって吉弥が隠居所へおもむき、佐兵衛を殺して、金をうばいとったのは、吉弥ひとりの才覚で、時次郎にはそこまでの考えはなかったのである。  かれはただ、お文をうばい、じぶんのものにしさえすればよかったのだから、あとで吉弥からその話をきくと、おおいにおどろいた。  しかし、おどろいたところで、いまさらどうなるものでもない。じぶんにも責任の一端はあるのだから、とにかくそのまま三人で、本所の割り下水へ身をかくした。  そして、そこにひと月ばかり、凄惨《せいさん》な愛欲の地獄絵巻きがくりひろげられたのである。  お文はどんなに時次郎がかきくどいても、がんとして首をたてにふらなかった。  そこで、時次郎は彼女を高手小手にしばりあげ、さるぐつわをはめたまま、押し入れのなかへほおり込んだ。  そして、夜となく、昼となく、好きなときにひきずりだしてもてあそんだ。  お文はもとより生娘ではない。鈴木の屋敷で大殿様の寵愛《ちょうあい》をうけ、男の味も、女の喜びも知っている女である。  だから、押し入れからひきずり出されて、裸にされ、まえから抱かれ、うしろからはがいじめにされ、よじまげられ、ねじ伏せられ、執拗《しつよう》に責めたてられると、心のなかえではあいてを憎みつづけながら、女の悲しい性《さが》として、われにもなく息をあえがせ、燃えあがらずにはいられなかった。また、男のほうでも、女が燃えにもえてもえつきて、男といっしょに溶けてしまうまで、けっしてからだをはなさなかった。  時次郎の計算では、こうして繰りかえしくりかえし女の喜びを味わわせているうちに、いつかあいての心もとけて、おのれに傾いてくるだろうと読んでいた。それが肉欲でしか男と女のなかを理解できない、こういう男の考えかたなのである。  しかし、それは時次郎の誤算であった。  お文はそのつど、絶えいるばかりに息をあえがせ、身をよじりによじるのだが、男がからだをはなすと、いつもその場に泣き伏した。しまいには涙も涸《か》れたが、泣くかわりに、ただぼうぜんとひとみをすえていた。そのひとみにきざまれた恨みと憎しみのいろは、日増しに濃く、深くなるばかりであった。  こうなると、もう恋だの、愛だのという問題ではなかった。嫉妬《しっと》と憎悪《ぞうお》と復讐とが、野獣のような男をかりたて、いよいよ、ますますお文のからだに、えげつない凌辱《りょうじょく》をくわえるのである。  それができたら、お文はとっくに死んでいただろう。しかし、さるぐつわをはめられた彼女は、舌をかみきることもできなかった。高手小手にしばられた身は、外へとびだして、井戸に身を投ずることもできなかった。  お文はあさましさと恐ろしさにくるわんばかりの身を、時次郎のためにおもちゃにされつづけた。  こういう恐ろしい、血みどろな愛欲の地獄絵巻きが、そういつまでもつづくはずのないことはわかりきっている。  いつかどこからか、破綻《はたん》がこずにはおかぬものである。  その破綻は、変質少年の吉弥からきた。  お文をえてから、時次郎は吉弥をかまいつけなくなった。吉弥にはまずそれが不満だった。かれはお文をにくんだ。  お文がきてから三日ほどのち、吉弥はいったんそこをとび出したが、ひと月ほどたって、ある晩ふらりと舞いもどってきた。  それが八月の何日であったか、お文の記憶がさだかでないのでハッキリしないが、あの死体の腐乱状態からして、佐七たちに発見されるより、少なくとも五日ぐらいまえだったのではないかといわれている。  お文が思うようにならぬので、むしゃくしゃ腹でいるところへ、吉弥がかえってきたので、時次郎もいちおうは歓待したらしい。久しぶりに酒をくみかわしたあとで、奥の六畳の寝床へはいった。  そこでゆがんだ痴戯にふけったあとで、時次郎は吉弥のからだをはなして寝てしまった。  しかし、その晩、吉弥がまいもどってきたのは、時次郎とよりをもどすためではなかったらしい。それよりも、お文に復讐するのが目的だったのではないか。  それともしらずに、時次郎は眠ってしまった。そして、押し入れのなかには憎い女。  吉弥はそれをひきずりだして、はじめは小突いたり、つねったりしていびっていたが、そうしているうちに、いままでかれの体内にねむっていた男の獣性がムクムクと頭をもたげてきた。  さいわい、時次郎は泥酔《でいすい》している。そのすきに、吉弥はお文のいましめをといて、犯そうとした。  お文はむろん必死となって抵抗した。その物音に目ざめた時次郎は、おどろいて吉弥をしかりつけた。  時次郎は吉弥をなぐりたおしておいて、あらためて、お文を高手小手にしばりなおすと、また押し入れのなかへ突っこんだが、そのとき吉弥が、やにわに匕首《あいくち》でついてかかったらしいのである。  このひと突きに、時次郎はわき腹をふかぶかとえぐられたらしいが、さすがにかれも武士のはしくれ、まくらもとにあったわき差しを抜いて応酬した。  ゆがんだふたりの愛欲は、いまや憎悪と敵意のかたまりと化していた。さんざん切りむすんだあげく、たがいに刺しちがえて、命をおとす結果になったらしい。  こうして、あわれお文はただひとり、身動きもかなわぬからだで数日間、押し入れのなかにとりのこされた。  佐七の発見がもう少しおくれていたら、彼女はそこで餓死していたろうといわれている。 「いや、こうしてお話するさえ、あさましい、いやらしい、まるでけだものの世界のような事件でございましたねえ」  語りおわって、佐七がほっとため息をついたのは、事件がすべて解決してから、ひと月あまりもたってからのことである。  佐七のまえには、浪人の青山福三郎が、愁然として首をたれている。  事件が解決するとどうじに、牢《ろう》から出たが、ひと月あまりの牢生活がたたったのか、からだをわるくして寝ていたが、ちかごろやっとよくなったので、あらためて佐七のところへ礼にきたのである。 「ときに、青山さん、おからだのほうは?」 「ありがとうございます。もうだいじょうぶでございます」  佐七はにっこり笑って、 「鳥目のほうはいかがです」 「え!」 「いえさ、青山さん、あなたはどうして鳥目ということを、ああひたかくしにかくしていなすったんです」  佐七が笑いながらつっこむと、福三郎ははっとしたようにうつむいた。  鳥目というのは、いまのことばでいえば夜盲症、夜になると目がみえなくなるのである。  これは栄養失調からくるのだが、肉食をすることの少なかった江戸時代には、案外、夜盲症患者がおおく、ことに体力の消耗しやすい夏場がひどかったようである。 「いや、べつにふかい子細はございませぬが、いい若者が、鳥目だなどといわれるが恥ずかしく……」 「いや、そればかりではありますまい。おまえさんが鳥目になったのも、茶断ち、塩断ち、四つ足はいうにおよばず、魚肉さえ口になさらなかったせいだという。いったい、あれはどういう心願がおありだったのですかえ」  福三郎はしばらく無言でひかえていたが、やがて、そっと涙をぬぐうと、 「いや、大恩あるおまえさんゆえ、なにもかも申し上げますが……」  と、打ち明けた話というのはこうである。  福三郎はもともと、西国の某藩士だったが、わずかのしくじりがもとでおいとまとなった。  しかし、かれは一日として、旧主の恩を忘れたことはなく、それがちかごろ聞くところによると、そのご主君がご不例とやら。  ご不興はご不興、ご恩はご恩、そこで茶断ち、塩断ち、魚肉まで断って、旧主の本復を祈ったのである。 「そのために鳥目となりましたが、それをいえば、親切な佐兵衛さんや、長屋の衆が、ほうっておきますまい。なにかと食べさせようといたしましょう。そうなっては、心願の筋にもさわりますので、鳥目ということはいっさいかくして、夜でも目が見えるふうをいたし、佐兵衛どののところへ小判を返しにいったときも、つとめて目が見えぬということはかくしておりましたのに……」 「やっぱり吉弥に見破られ、印籠《いんろう》をすられたうえに、たもとに血までぬられたのですね」  佐七も福三郎の篤実さには打たれずにはいられなかった。  かれは鳥目ということをかくすために、あらゆる苦心をはらい、近所まわりは目をつむっても歩けるように修業をつんでいたという。 「しかし、佐七どの、あなたはどうして拙者の鳥目を……」 「はっはっは。それはあの八つ目うなぎでさあ。佐兵衛さんも、おまえさんの鳥目に気がついていたんですね。鳥目にゃ女は大敵、それでおまえさんが女房をもつのをいやがるのだと、そうおもったものだから、それとなく鳥目の特効薬、八つ目うなぎをくれたんです。あなたの吟味にあたられた神崎様もそこに気づかれ、それであっしに再調査を命じられたんです。ところで、青山さん、ご主君というのは?」 「拙者が入牢《にゅうろう》しているあいだに、とうとうご他界あそばされたとか……」  福三郎は愁然としてうなだれた。 「いや、それはおきのどくな……」  佐七もしばらく黙っていたが、やがてため息をつくように、 「おきのどくなといえば、お文さんもおきのどくで、ちかくいよいよ尼になるそうで……」  福三郎は顔をあげると、食いいるように佐七の顔をみつめながら、 「そのことは拙者も聞きました。それで、きょうはおまえさんに、ご相談があってきたのですが……」 「あっしにご相談とは?」 「お文どのは尼になりませぬ。いや、尼にさせませぬ、尼にしては、佐兵衛どのにあいすみませぬ。佐七どの、拙者はお文どのを妻にもらいうけたい。おまえさん、ひとつ、橋渡しをしてくださるまいか」  佐七はおどろいたように、あいての顔を見直して、 「しかし、お文さんは、あのとおり……」 「傷物になったとおっしゃるのか。いいや、拙者はそうは思わない。佐七どの、聞けばおまえさんがたが、割り下水へ乗りこんだとき、お文どのは高手小手にいましめられ、さるぐつわまではめられていたというではありませんか。これすなわち、お文どのが悪者に心まで許さなかった証拠です。かどわかされてからひと月あまり、からだはいかにけがされようとも、さいごまで男に心を許さなかったお文どのを、拙者は傷物とはおもいませぬ」  佐七の口から、福三郎のことが伝えられると、お文は声をあげて泣き伏した。  そして、はじめのうちはなかなか承知しなかったが、周囲からいろいろすすめられて、福三郎と夫婦になったのは、もう年の瀬もおしせまったころである。  こうして、海坊主の茂平次はまたひとつ黒星をかさねたが、それに反してお文福三郎のふたりは、ああいう恐ろしい経験を持つにもかかわらず、こんなになかのよい夫婦もめずらしいと、そのころ評判だったという。     七人|比丘尼《びくに》  重箱坊主持ち   ——ぶつかったのは怪しい老比丘尼《ろうびくに》 「そうら、きた。豆六、どうだ、こんどはてめえの番だぞ」 「あれ、兄い、どこに……? 坊主なんかどこにもいやしまへんやないか」 「いねえもんか? むこうの軒下で、虚無僧が尺八を吹いてらあ。虚無僧だって坊主のうちよ」 「あれ、そんなこすいこと……そんなんあきまへん。わてのいうたんは、頭をまるめた坊さんのことや。あほらしい。坊主持ちに、虚無僧なんか入れてどないしまんねん」 「べらぼうめ、そんならそれとはじめから、きめておきゃいいじゃねえか。ただ坊主持ちといったからにゃ、虚無僧も入れにゃならねえ。さあ、豆六、どうでも、てめえ、持て、持て」 「いやや、そんなこすいの、わて、いやや」  と、辰と豆六が、しきりにワイワイせりあっているのを、人形佐七は振りかえり、 「これ、ふたりとも静かにしねえか。てめえたちが、あまり虚無僧、虚無僧というもんだから、さっきの虚無僧、妙な目をしてにらんでいったぜ」  と、笑いながらたしなめれば、辰は不平らしくつらをふくらませて、 「だって、親分、この野郎、ずるいじゃありませんか。荷物を坊主持ちにしようというから、あっしも承知してやったので。すると、このしろ[#「このしろ」に傍点]親分のうちを出たとたん、むこうから、護国寺の坊主がやってきやアがった。しかたがねえから、あっしが荷物を持ってやった……」 「そら、しかたがおまへんがな。坊主持ちやもん。こんど坊主がきたら、わてかて、すぐにかわりまんがな」 「だから、かわれというんだ。ねえ、親分、虚無僧だって坊主のうちじゃありませんか」 「はっはっは、そういえばまあそうだな。虚無僧のことを、有髪の僧というからな」  と、佐七がおもしろそうに笑えば、辰もとくいになり、 「そら、どうだ、どうだ。親分もああおっしゃる。この荷物はなんでもてめえだ。てめえだ」  と、むりやりにふろしき包みを押しつけられ、豆六はうらめしそうに、 「チョッ、いまいましい。うまいこといいくるめたろ思てたのに、親分がいらんことをいやはるさかい、とうとう持たされたやおまへんか」 「ざまアみやがれ。どうぞ神田まで、坊主に出会いませんように。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」  うまく荷物を豆六におしつけたきんちゃくの辰五郎は、うれしがってはしゃいでいる。  きょうは秋のお彼岸だった。雑司《ぞうし》ガ谷《や》に菩提寺《ぼだいじ》のある佐七は、お寺参りにいったついでに、帰途立ちよったのが、音羽の親分このしろ吉兵衛《きちべえ》の住まい。このしろ吉兵衛というのは、佐七の亡父伝次とは、杯の飲みわけをしたという兄弟分で、佐七にとっては親代わりの恩人だった。  久しぶりに顔を出すと、吉兵衛も女房のお千代もよろこんで、すっかりごちそうになったあげく、 「これをお粂さんに」  と、かえりに出されたのが、大きな重箱。 「あねさん、そりゃなんですえ」 「おはぎですよ。きょうはお彼岸だからこしらえたの。うまかあないけど、お粂さんに……」  と差しだされて、辰と豆六は恐れをなした。  ふたりとも左ききのほうだから、甘いものにはとんと同情がない。  おまけに、その重箱というのが、特製別あつらえという大型だから、さげてみるとずいぶん重い。  だいいち、いい若いものが、おはぎの重詰めをさげて歩けるものかと、さてこそ辰と豆六は、これを坊主持ちときめて、なるべく敬遠しようというわけだ。  佐七は笑いながら、 「まあ、そういうな。せっかくあねさんがことづけてくだすったものだ。そまつにしちゃいけねえ」  と、三人ががやがや騒ぎながら、いましも音羽の通りから、水道ばたのほうへまがろうとしたとたん、出会いがしらにばったりと、いやというほど辰にぶつかった女がある。 「あれ、ごめんください。少し急いでいるものですから……」  見れば、十九か二十の、ちょっとこぎれいな娘だったが、あいさつもそこそこにいきすぎると、伊勢源《いせげん》勝手口と書いた裏木戸へとび込んだ。  あと見送って辰はあきれたように、 「なんだい、ありゃ……」 「えろうあわをくうてましたな。それに、顔色も尋常やおまへなんだ」 「伊勢源の女中かな。まさか娘じゃあるまい」  伊勢源というのは、そのへんきっての大きな質屋で、黒板塀《くろいたべい》のなかには、土蔵が二棟《ふたむね》そびえている。  佐七をはじめ辰と豆六、ふしぎそうに、その伊勢源のかどをまがって、水道端のほうへ出ようとしたとたん、またもやばったり、こんどは、豆六のまともからぶつかったものがある。 「わっ!」  なにをおもったのか、豆六はぎょうさんな声をあげて、二、三歩うしろへとびのくと、まっさおになってふるえている。  見れば、あいては五十をこえた老比丘尼《ろうびくに》だが、これが、なんともいえぬほど、醜い顔かたちをしているのである。  白もめんのあわせに黒の腰衣、頭には水色のずきんをかぶり、胸に頭陀袋《ずだぶくろ》をさげ、手に鐘を持っているところはふつうの勧進比丘尼だが、その顔というのがじつに醜い。  いや、醜いというより、気味が悪いのである。  あぶらけのない顔はしわだらけでがまにそっくり、おまけに兎唇《みつくち》ときている。  おりから秋の逢魔《おうま》ガ時、佐七でさえぞっと、うすきみ悪さをおぼえたくらいだが、あいては平然として、あいさつもなく、いきすぎる。  ——と思うと、五、六歩いってふとふり返った。 「あの、もし、おまえさん」  じろりとにらまれて、辰はひえっとばかりに首をちぢめた。  へび使い比丘尼   ——頭陀袋の中からにょろにょろと 「いま、ここへ、若い娘がきやアしなかったかえ」  兎唇《みつくち》をもれる声は、枯れ野をわたるこがらしのように気味悪い。ことばつきには上方なまりがまじっていた。 「ああ、その娘なら……」  辰がなにかいおうとするのを、なにを思ったのか、いきなり佐七が横から引き取って、 「おお、その娘というのは、十九か二十の、いちょう返しにゆったこぎれいな娘じゃないかえ」 「おお、それそれ、その娘はどこへいった。おまえさん知っているか」 「うん、その娘なら、さっきおれに突きあたったが、ものもいわずに……おお、そうだ、なんでも鼠坂《ねずみざか》を駆けのぼって、久世山のほうへいったようだ」  佐七のでたらめを真にうけたか、比丘尼はそれを聞くと、あいさつもせずに、くるりとむこうをむいて足をはやめた。あと見送って、辰は佐七のほうをふり返り、 「親分、おまえさん、なんであんなうそを……」 「ははは、まあいいや。あんな気味悪いばばあにおっかけられちゃ、だれだってこわくならあ」  さっき、伊勢源の裏木戸に逃げ込んだ娘は、まだそこにいるのか、いないのか、おおかた奥でふるえているのだろうと、佐七は二、三歩歩いたが、ふと思い出したように豆六をみて、 「豆六、いまのは比丘尼だったなあ」 「へ、へえ……」  豆六はどうしたことか、大きな重箱をぶらさげたまま、ぼうぜんとしてつっ立っている。 「あれ、豆六、比丘尼といえば女の坊主だぜ」 「親分、親分、よけいなことをいわねえでくださいよ。せっかく豆六が気がつかねえでいるものを、チッ、しかたがねえ。豆六、その重箱を……あれ」  豆六は、しかし、返事もしない。さっきとびのいたかたちのままで、まだぶるぶるふるえている。 「豆六、どうした。なにをそんなにふるえているんだ」 「だ、だって、親分、わて……わては、あ、あいつがだいのきらいで……」 「あいつってなんだ」 「へ、へ、へびで……」  佐七と辰はおどろいて、あたりを見まわした。  ひとにはそれぞれ苦手があるものだが、この豆六とくるとだいのへびぎらい、姿はおろか話をきいても、あおくなるほうである。佐七も辰も日ごろから、それをよく知っているから、きょろきょろあたりを見まわしたが、へびなんぞどこにもいない。 「豆六、へびなんかいやアしねえじゃないか」 「豆六、むこうに長くなってるやつなら、ありゃへびじゃねえ。なわの切れっぱしだから安心しろ」 「そ、そうやおまへん。さっきのばばあが……」 「ばばあ? ばばあというのはあの比丘尼か。あいつがどうしたというんだ」 「へ、へびを持ってましたんで。どんとぶつかったひょうしに、頭陀袋《ずだぶくろ》のなかから、にょろにょろと……」  豆六はだいぶ口がきけるようになったが、それを聞いておどろいたのは佐七だ。  そうでなくても怪しい比丘尼、それが頭陀袋にへびをいれて歩いているとは、どうしてもこのまま見のがせぬ。 「辰、豆六、こい。怪しいのはあのばばあ、追っついてひと詮議《せんぎ》しなけりゃならねえ」 「お、親分!」  へびの詮議ときいて、豆六はまたあおくなっている。 「豆六、てめえはいいからあとからこい。辰、重箱はそのまま豆六にあずけておけ」 「おっと、しめた!」  とばかりに、佐七と辰は、ばらばらと駆けだすと、鼠坂から久世山のほうをさがしてみたが、怪しい老比丘尼のすがたは、もうどこにも見えなかった。  佐七が失望してかえってくると、豆六があとからのこのこやってきた。 「親分、見つかりましたか」 「いや、とうとう逃してしまった。てめえ、もうすこしはやくいやあいいのに」  と、しかってみたが、へびをみると、放心状態になる男のことだから、これはしかるほうがむりである。  佐七は残念そうに歩いていたが、ふと思い出して、 「そうだ。伊勢源へ逃げこんだあの娘、あいつをたたきゃなにかわかるだろう」  佐七はにわかに元気づいたが、あにはからんや、伊勢源で尋ねてみると、そういう娘にはすこしも心当たりがないという。尋ねられるほうが、かえってふしぎそうな顔色だった。  それでも念のために裏木戸を見せてもらうと、木戸の内側に女下駄《おんなげた》の跡がついていたが、その足跡はそこから奥へはいかずに、そのまま、また表へ出ていっている。  これを要するに、あの娘は伊勢源の裏木戸のあいているのをみると、とっさにそこへ身をかくしたらしいのである。  そうとわかると、佐七はすっかりふきげんになってしまった。あんな小娘にまんまと一杯食わされたかと思うと、しゃくにさわってたまらなかった。  それにしても、へびを持ったあやしい比丘尼に追っかけられているきれいな娘……そこになにか、ふかい子細がありそうに思われてならなかったが、はたせるかな、それからまもなくつぎつぎと、世にも気味のわるい事件が起こったのである。  大江戸まむし騒動   ——三人比丘尼がまむしにかみ殺された 「親分、たいへんだ、たいへんだ、比丘尼橋のうえで、比丘尼がひとり、また殺されたという話です」  まえにのべた事件があってから、ひと月ほどのちのこと、神田お玉が池の佐七の住まいへ、あわをくって飛びこんできたのはきんちゃくの辰。  あとにはうらなりの豆六が、しょんぼりとしてひかえている。 「なに、比丘尼がまたひとり殺されたと? そして、なにか、やっぱりあれか」 「へえ、そうです、そうです。やっぱり、まむしに食い殺されたらしいという話です」 「よし、お粂、出かけてくるからしたくしろ」  佐七がかいがいしく身じたくをしているのをみると、豆六が心細そうな声を出した。 「親分……」 「おお、豆六、てめえはこなくてもいい。なに、いいってことよ。ひとにはそれぞれ苦手があるものだ。おまえはうちでるす番してろ」 「すみまへん。このつぎに、きっと埋めあわせをしますさかい」 「ほんとにえらいもんだなあ。日ごろ陽気な豆六が、へびときくと青菜に塩とはなあ。前世でよっぽど、へびに悪いことしやアがったにちがいねえ」 「はっはっは、落語でよくやるじゃねえか。生まれたとき、まくらもとを通ったものを恐れるんだとよ。豆六がおぎゃあと生まれたときにゃ、きっとへびのやつがまくらもとを、にょろにょろと……」 「お、親分……」 「おっと、すまねえ。すまねえ」  佐七は、いそいでうちを飛び出したが、それにしても辰の注進に、比丘尼がまた殺されたといい、佐七がやっぱりあれかと尋ねたにはわけがある。  比丘尼が奇怪な死を遂げたのは、こんどがはじめてじゃなかった。  このあいだ、音羽で妙な事件があってから十日ほどのちのこと、芝、金杉《かなすぎ》のへんの道ばたで、比丘尼の死体が発見された。  からだをみると、べつにこれという傷もないので、はじめはふつうの行き倒れかと思われていたが、その後、よくよく調べてみると、手首のところに小さなかみ傷がある。  そこで、ともかく医者にみせると、どうやらまむしのかみ傷らしいというので、かいわいは大騒ぎになった。  そのへんにへびが出ないとはいえないが、いままでまむしにかみ殺されたというような騒ぎはなかった。  この話を聞き込んだ佐七は、もしやこのあいだの比丘尼じゃあるまいかと、すぐさま金杉へ駆けつけてみたが、死骸をみると、似ても似つかぬべつの尼だった。  としもずっと若かったし、きりょうもあれほど醜くはなかった。  近所のものにきいてみると、この尼はときどき、そのへんへ托鉢《たくはつ》にくるものだが、どの尼寺にいるなんという尼であるか、だれも知っているものはなかった。騒ぎは江戸じゅう伝わっているはずだのに、どこの尼寺からも、死体の引きとりに現われなかった。  こうして、肝心の身もとがわからずじまいだから、いかなる捕物の名人も、詮議《せんぎ》のしようがない。  ただ怪しいのは、このあいだ音羽で出会った老比丘尼……八方ゆくえをさがしたが、とんと居どころがわからない。そのうちに、またまた、ここにおなじような事件が起こった。  こんどは谷中《やなか》の感応院わきで、やっぱりある朝、ひとりの比丘尼が、まむしにかみ殺されているのが発見された。  この尼も年ごろ三十二、三だったが、身もとのわからないことは同様で、どこからも死体の引きとり手は現われなかった。  しかし、こうなると、もう過失とはいえない。  ふたつの事件に、つながりのあることは明らかだった。だれかまむしを使うやつが、比丘尼ばかりをねらっているらしいとあって、どこの尼寺でも大恐慌、托鉢《たくはつ》に出るものもなくなったが、そのやさきに、またまた三人めの犠牲者が現われたのだ。  さて、佐七が比丘尼橋へ駆けつけると、死体はすでに近所の自身番へ引きとられたあとだという。  そこで自身番へ出向いていくと、表にはいっぱいのひとだかり。  そのやじうまをかきわけて、佐七はなかへはいろうとしたが、そのとたん、なにを見つけたか、おやとばかりに目をみはった。 「おい、辰」  声をかけると、なにも気づかぬ辰は、 「へえ、親分、なんです」  と、あたりへひびく高返事、佐七はチェッと舌打ちして、 「まあ、いいやな。なかへはいってから話をしよう」  自身番のゆかには、むしろをかけた、尼の死骸がよこたわっている。佐七はそのむしろをあげながら、きんちゃくの辰を呼び寄せて、 「おい、辰。表に医者らしい男がひとり立っている……これ、うしろを見るんじゃねえ」 「へえ、へえ、その男がどうかしましたか」 「うむ、このまえの感応院わきの尼殺しのときも、あいつたしか死体のそばをうろうろしてやアがった。あのときは気がつかなかったが、尼が殺されたと聞いて、わざわざ見に駆けつけやアがったにちがいねえ。おまえ、あいつに気づかれぬように、こっそりあとをつけてみろ」 「おっと、合点だ。しかし、親分、どんな男です」 「総髪頭《くわいあたま》で十徳すがたの、ひと目で医者とわかる風体だ。としごろは四十かっこう、でっぷりふとった、ひと癖ありげなあから顔の男だ」 「おっと、それだけわかればたくさんです。きっと行く先をつきとめてごらんに入れます」  辰がなにげない顔で立ちあがると、佐七ははじめて死体をあらためはじめた。  比丘尼と若い娘   ——どうぞこのことないしょにして  尼は年ごろ四十四、五だろう。  大がらのいかついからだつきをして、手なども男のように大きくごつごつしていた。  顔も渋紙色に日焼けしていて、すべてが男のようにがんじょうで、がっちりしている。 「とっつぁん、この比丘尼は比丘尼橋のうえに倒れていたとかいったね」  死体を調べおわった佐七が、あたりを見まわすと、いつのまにか辰がいなくなっている。  表を見ると、医者のすがたもみえなかった。  さては……と、心にうなずきながら佐七が尋ねると、 「へえへえ、そうなんで。近所の若い衆が見つけたそうで……親分、まあ、お茶でも召し上がれ」 「いや、これはありがとう」  おやじがくんでくれた渋茶をすすりながら、 「そして、この比丘尼だが、とっつぁんにゃ見おぼえがねえかえ。このへんへ、ちょくちょくやってくる尼さんかえ」 「さあ、わたしはいっこうに見おぼえはありませんが、むこうの紀の国屋の長吉という小僧が、まえに見たことがあるそうです。なんでも四、五日あとにも、小石川の水道ばたで、この尼を見かけたそうです」 「なに、水道ばたで……?」  佐七はきゅうにひざを乗りだした。  水道ばたといえば、あのあやしい老比丘尼に出会ったところだ。 「とっつぁん、すまねえが、その長吉という小僧を、呼んできちゃくれまいか。なに、そのことで、ちょっと聞きたいことがあるんだ」 「へえ、へえ、それゃおやすいご用で」  おやじは気軽に出ていくと、すぐ十四、五の前髪の小僧を連れてきた。みると、りこうそうな顔をしているから、これならなにか聞き出せるだろうと、佐七もよろこんでひざをすすめた。 「長吉というのはおまえかえ。おまえはこの尼さんに、見おぼえがあるそうだね」  佐七がおだやかに尋ねると、長吉はすこしも恐れるふうはなく、かえって得意になって、 「はい。よくおぼえております。せんにちょくちょく、このへんへまわってまいりましたので」 「いや、おれが聞いているのはそれじゃねえんだ。おまえ四、五日あとに、水道ばたで、この尼さんに出会ったというじゃねえか」 「はい、出会いました。せんによく見かけたことのある尼さんだから、すぐにこのひとだとわかりました。そのとき、尼さんは若い娘さんといっしょでした」 「なに、若い娘といっしょだった? 長さん、そのときの話を、もっとくわしく話してくんねえか」 「はい」  と、そこで長吉がよどみなく話したところによると、こうである。  四、五日まえに、長吉は主人の使いで音羽のほうへいった。  そのかえりに、水道ばたのそば屋へはいると、そこへはいってきたのが、この尼と、若い娘だったというのである。 「娘さんというのは、十九か二十の、ちょっとこぎれいなひとでしたが、ひどく尼さんをこわがっているらしく、ぶるぶるふるえておりました」  娘のとしかっこうや風体をきくと、どうやら、このあいだの娘らしい。佐七はいよいよひざを乗りだし、 「うむ、うむ。そして、ふたりでどんな話をしていた。おまえなにか聞きゃしなかったかえ」 「はい、少し妙だと思いましたのは……」  と、長吉が語るには、尼はなにか娘をおどかしているらしく、そのことばを聞くたびに、娘はおどおどふるえていたが、やがておがむように、 「ごしょうだから、妙雲さん、こんど伯母さんに会っても、わたしがここにいることを、いわないでください。わたしはこわくて、こわくて……」  と、そこまで聞いたが、そのあとは声が低くなったので、聞きとれなかった。  そのうちに、長吉はそばを食ってしまったので、外へ出たというのである。 「こんなことがあると知ったら、わたしも身を入れて、ふたりの話を聞いておくのでしたが……」  と、長吉はおそれげもなく、むしろからはみ出している尼の死体をながめながら、残念そうにいった。 「いや、ご苦労、ご苦労。それだけでも大いにたしになる」  長吉をかえしたあとで、佐七がつらつら考えるのに、ここに死んでいる尼は、妙雲というのにちがいない。  そして、あの娘と昔なじみであったところ、偶然、水道ばたで出会ったのだろう。さて、その娘が妙雲にむかって泣くように、じぶんの居どころをかくしておいてくれとたのんだ伯母とは、いったい、どういう女だろう。  佐七はふかく考えるまでもなく、すぐ、あの気味悪い、老比丘尼のことを思い出した。  娘はなにか事情があって、あの老比丘尼から、姿をかくしているにちがいない。  それにしても、三人の尼を殺したのは……? 佐七はどうしても、あの老比丘尼のしわざとしか思えなかったが、それならば、なぜまえのふたりが殺されたとき、あの若い娘や、妙雲は訴えて出なかったのだろう。  ふたりとも、まだ気がつかなかったのだろうか……。  とつおいつ、佐七がそんなことを考えているところへ、自身番の表から、いきおいよく飛び込んできたのはきんちゃくの辰だ。 「親分、すみません。なにしろ、本所までつけていったもんですから」 「うむ。そして、あいつの身もとはわかったか」 「へえ、そこに如才はありません。あいつは本所一つ目に住んでる藪原朴庵《やぶはらぼくあん》という医者です。近所できいても、評判は悪くございませんが、あいつどうしても臭いようです」 「うむ、うむ、なにかあったのか」 「いえね、さっき親分が、このむしろをまくったでしょう。あのときはじめて、尼の顔が見えました。すると、外から伸びあがって尼の顔を見ていた朴庵のやつ、にわかにまっさおになりやアがって、まるで、うしろへひっくり返りそうでしたぜ」 「よし、それじゃどうでも、その朴庵先生をたたいてみにゃなるめえな」  のろいの比丘尼屋敷   ——妙椿《みょうちん》比丘尼はからだじゅう傷だらけ 「ねえ、朴庵《ぼくあん》さん。おまえさんにここへきてもらったわけはわかっているだろうな。おまえさんのうちへ、押しかけていってもいいが、おまえさんにも女房子どもがあろう。迷惑じゃいけねえと、わざわざここまできてもらいましたのさ。ねえ、朴庵さん、おまえさん、比丘尼橋で殺された妙雲という尼さんを知っていなさるようだね」  ぐさりと、くぎをさすようにいわれて、ひとたまりもなく縮みあがったのは藪原朴庵。  ここは本所一つ目の、とある料理屋の奥座敷。雨漏りのしみこんだ窓の障子に、西日がかっと明るかった。 「知っているといえば、知っているような……親分さん、まあ、お聞きくださいまし」  と、そこで朴庵が、くちびるをふるわせながら話しだしたのは、つぎのような世にも奇怪な物語だ。  それは去年の秋のこと。しとしとと雨のふる夜ふけに、たたき起こされた朴庵が、しぶしぶ表へ出ると、ふたりの尼が立っていた。  話をきくと、急病人だからすぐきてくれとのこと。みると、ついぞ見たこともない尼だし、それにこの雨のなか、朴庵はなんだかいやだったが、ことわりもならず、薬箱をさげて出ていった。  ふたりの尼は、無言のまま、朴庵のさきに立って歩いていたが、相生町《あいおいちょう》のかどまでくると、ふいに年かさのほうが、妙なことをいいだした。  子細あって、これからいくところを、先生に知られたくないから、目隠しをさせてくれというのだ。  これには朴庵もおどろいたが、すると、いきなりその尼が、ぎゅっと朴庵の手首をにぎった。 「それがつまり妙雲なんですが、いや、その力の強いこと、うっかりさからうと、締め殺されそうなので、わたしもとうとう、いうがままになりました」  それからあとはいっさい夢中で、どこをどう歩いたかもわからず、むこうの家へつき、座敷へはいると、やっと、目隠しをとってもいいという許しが出た。  そこで、朴庵がこわごわ目隠しをとってみると、そこは化け物屋敷みたいに荒れはてたひとまだったが、そのひと間につごう七人の尼がいた。  ふたりは朴庵を案内してきた尼だが、ほかに三人の尼がへやのすみにかたまって、なにか恐ろしそうにふるえている。  みると、へやのまんなかに、うすいせんべいぶとんがしいてあって、そのうえで、ひとりの尼がのたうちまわっている。それをしきりになだめているのは、十八、九の七人のなかでいちばん年若い、ちょっときれいな尼だった。 「妙琴《みょうきん》さん、お医者さまをおつれしましたよ。妙椿《みょうちん》さんの容体はどうです」  朴庵に目隠しをした力のつよい妙雲がそうたずねた。  わかい尼は妙琴、病人は妙椿というらしかった。 「はい、やっぱりおなじことで……先生、お願いいたします」  妙琴は涙ぐんだ目で朴庵を見上げたが、こうなるとさすが医者で、朴庵もしだいにおちつき、病人のそばへすりよったが、すると、またもやはげしい悪寒《おかん》が背筋を走った。  病人の妙椿というのは、兎口《みつくち》のうえに、がまのような顔をしていて、それが苦痛にのたうっているさまは、なんともいえぬほど気味悪かった。  だが、朴庵がおどろいたのはそればかりでない。苦痛のために、半裸体になった妙椿の膚《はだ》には、いちめんにおそろしい傷跡がついていた。  焼き鏝《ごて》のあと、切り傷、針で突いたあと——あまりのむざんさに朴庵が顔をそむけると、妙琴がすばやく掛けぶとんで膚をかくして、 「先生、急病というのはこれでございます」  と、妙椿の手首を指さした。みると、ポッツリと小さなかみ傷がある。 「いったい、こりゃなんにかまれたのです」 「まむしに……」  まむし——と、これには朴庵もおどろいたが、ともかく手当をすると、けが人もだいぶおちつき、ひとまず朴庵もその夜は帰った。  帰るとき、やっぱり目隠しをされたことはいうまでもなく、妙雲ともうひとりの尼、これはあとで妙照という名だとわかったが、そのふたりが、さっきのところまで送ってきた。  ところが、別れるときに妙雲がいうのに、このことはだれにもいってはならぬ。また、明晩迎えにいくかもしれぬが、そのときはきっときてくれ。もしこのことをしゃべったり、迎えをこばんだりすれば、そのままにはおかぬと、そういう目つきの恐ろしさ、朴庵はふるえあがって承知した。  その翌晩になると、はたして妙雲と妙照が迎えにきたので、朴庵はまた目隠しをされて出ていったが、ゆうべ七人いた尼は、今夜は五人に減っていた。  どうやらふたりは逃げたらしく、老比丘尼の妙椿は、しきりにふたりをののしっていた。すると、妙雲がにくにくしげに、 「妙椿さん、おまえはそういうが、ふたりが逃げたのもむりはないよ。おまえのような気味の悪いひとと、だれがいっしょにいたいものか」  妙椿はこれをきくと、がばとはね起き、 「妙雲さん、それはなんという言いぐさだ。わたしがあんなまねをするのも、みんなかたきをのろいたいため。おまえたちは、七人の誓いを忘れたか……」  妙椿がなおもいいつのろうとすると、妙琴があわてて、 「妙椿さん、妙椿さん、そんなことを……先生が聞いていらっしゃるのに……」  そういわれて、妙椿もはっと気づいたように黙ってしまった。  さて、その晩はそれですんだが、いいぐあいに妙椿もよくなったらしく、それきり、だれも迎えにこなくなった。朴庵がほっとしていると、十日ほどたって、こんどは妙琴が、ひとりであわただしく駆けつけてきた。  朴庵もうんざりしたが、ことわるのもこわいので、しぶしぶついていくと、家のなかには妙椿と妙琴のふたりしかいない。  きいてみると、妙雲、妙照、それからもうひとりいた妙蓮《みょうれん》という三人の尼も、あれからまもなく、このふたりを捨てて逃げてしまったらしいのである。  それはいいが、ふしぎなのは妙椿の傷で、またもや、まむしにかまれたというのだ。そうたびたびまむしにかまれるというのはふしぎだと、朴庵がなにげなく尋ねると、妙椿はものすごい目でにらみつけた。 「そんなことは、おまえさんの知ったことじゃない」  このひとにらみで、朴庵はちぢみあがったが、さいわい、いぜんの傷で免疫ができているらしく、妙椿の容体は案外かるかった。  けががよくなれば医者に用はない。妙琴もそれっきり迎えにこなくなったので、よいあんばいだと思っていると、それから十日ほどたって、なんとこんどは妙椿が、ものすごい顔をして、朴庵の家へあばれこんできたのである。 「なんでも、さいごにのこった妙琴も、たまりかねて逃げたらしいのですが、それをわたしがそそのかしでもしたように邪推して、ほかの連中が逃げたのはしかたがないが、妙琴は姪《めい》だから逃げるはずがない。きっと、おまえさんが隠したにちがいないとあばれるんです。それでもまあ、やっと疑いが晴れてかえりましたが、それきりだれもやってこなくなったので、わたしもほっと、胸をなでおろしていたのでございます。それが、去年のいまごろのことで……」  と、語りおわった朴庵の、なんとも奇怪な物語に、佐七と辰は、おもわず顔を見合わせた。  またもや音羽のまむし騒ぎ   ——かみ殺されたのは薮原朴庵 「そういうわけで、そのご一年あまり、七人の尼にもあいませんでしたが、このあいだ、芝の金杉《かなすぎ》で、尼がまむしにかみ殺されたといううわさ、そのときわたしは、てっきり、兎口《みつくち》の妙椿だとばかり思っておりました。すると、まもなく、また谷中《やなか》でのまむしさわぎ、これにはわたしもおどろいて、駆けつけてみましたが、死骸の顔を見ることはできませんでした。ところが、またまたこんどのさわぎで、出かけてみると、見おぼえのある妙雲ですから、わたしもすっかりたまげてしまいまして……」  と、朴庵は気味悪そうに肩をふるわせながら、 「さっそくこのことをお届けしようかと思いましたが、かかりあいになるのが気味悪くて……」  話をきいてみると、朴庵が黙っていたのも、いちおうはもっともである。  大がらで、あぶらぎったからだをしているが、根はおくびょうそうなこの医者が、気味わるい七人の尼におびやかされて、縮みあがっていたさまが、目にみえるようだ。 「うむ、それじゃおまえさんは、妙椿にさいごにわかれてから、だれにも会わなかったというんですね」 「はい」 「ところで、朴庵さん。その化け物屋敷だが、おまえさん、それがどこかわかりませんか」 「それが……」  と、朴庵は顔をしかめて、 「なにしろ、いつも目隠しをされていたものですから……そのご、わたしも気をつけておりますが、どうしてもわかりません」  これで捜査の糸はプッツリ切れた。  それからまもなく、佐七は朴庵とわかれて、わが家へかえってきたが、どうしたものか豆六の姿がみえない。お粂にきいてみると、佐七が出かけるとまもなく、どこへいくともいわず、ふらりとうちを出ていったという。 「野郎、しかたのねえやつだ。へびぎらいだからと、かんべんしてやりゃいい気になって、遊び歩いているにちがいねえ。かえってきやがったら、うんとあぶらをしぼってやらにゃならねえ」  と、豆六のかえりを待っていたが、晩飯もすみ、もう寝るじぶんになってもかえってこない。 「野郎、泊まる気かな。お粂、表に心張り棒をかっちまえ。かえってきてもあけてやるな」  佐七もすくなからず中っ腹で、表をしめて寝てしまったが、真夜中ごろけたたましく表をたたく音。 「親分、親分、ただいま、ここあけておくれやす」  お粂も、佐七も、まだ起きていたが、わざとしらぬ顔をしていると、豆六は、いよいよはげしくたたいて、 「親分、あねさん、ごしょうやさかいあけておくれやす。大事件や、大事件や、一大事|出来《しゅったい》」 「あれ、あんなことをいやアがる。お粂、ほうっておけ、野郎、きまりが悪いから、ごまかそうというんだろうが、そんなことでだまされてたまるものか」  寝たふりをしていると、豆六はいよいよたまりかねて、がたがた格子《こうし》をゆすりながら、 「困ったなあ、みんな寝てしまいよったんかいなあ。親分、兄い、兄い、起きておくれやす、音羽でまたもやまむしさわぎや。殺されたのは薮原朴庵」  聞くなり、佐七はおどろいてはね起きた。とたんに、二階から辰がころげるように降りてくる。それもそのはず、豆六はまだ薮原朴庵のことを知らないのだから、うそにそんなことをいえるはずはなかった。 「豆六、そんならてめえ、遊びにいってたんじゃねえのか」  辰が心張り棒をはずすと、豆六がころげるようにはいってきた。 「なにをいやはんねん、親分が汗水たらして駆けずりまわっていやはるのに、子分のわてが、のんきにあそんでいられまっか。親分、親分」  奥でその声をきいた佐七とお粂は、穴があったらはいりたいくらいだ。  大急ぎで帯をしめなおしながら出てくると、 「豆六、薮原朴庵が殺されたというのはほんとうか。おまえ、どうしてあいつを知っている」  たたみかけるように尋ねられて、豆六あわてて、土瓶《どびん》の湯を飲みながら、 「ま、まあ、待っておくれやす。音羽からかけどおしで……親分、聞いてください、こういうわけだす」  と、そこで豆六が話すところによると、きょう、佐七と辰が出かけたあとで、豆六はじっとしていることができなかった。  へびぎらいのために、この一件の捜査にもれたのが残念でたまらない。  そこで、思いついたのが、せんだって伊勢源へ逃げ込んだ娘のこと。あのときの娘の風体は、遠出のようにはみえなかった。してみると、娘はあの近所に住んでいるにちがいない。あいつを捜しだしたら、兎唇《みつくち》の老比丘尼のこともわかりゃしないかと。 「それで、豆六、音羽へ出かけていったのか。ああ、すまねえ、すまねえ、おれゃあ手をついてあやまるぜ。これ、辰、てめえもあやまれ」 「豆六、すまねえ。おれえらい勘違いをしていたよ」  と、ふたりに手をつかれて、豆六は目をパチクリ。 「親分、兄い、そらなんのことだす。まあ、ええがな。とにかく話を聞いてください」  そこで音羽へ出向いた豆六は、じぶんひとりではおぼつかないと、このしろ親分のところへ駆けこんだ。  事情を話すと、吉兵衛も乗り気になって、そのへんにいる手先、子分を総動員して、娘の所在を捜索したが、そのかいあって…… 「娘の居どころがわかったのか」 「へえ、わかりました。音羽の子ども屋、山吹屋というのへ、三カ月ほどまえから住みこんだお琴ちゅうのんがそれらしい。なんでもまだ、そのお琴ちゅうのんは、山吹屋へ住みこんだじぶん、髪が伸びきってなかったんで、いつも添え毛をしていたところから、比丘尼のお琴というあだ名があるんやそうだす」  それだ。そのお琴こそ尼の妙琴にちがいない。 「してして、そのお琴をつかまえたか」 「へえ、つかまえるにはつかまえました。そやけど、そのまえに大騒動がおまして……」  さがす娘がお琴とわかったのは、夜もだいぶおそかった。山吹屋へ出向くと、お琴にはちょうど客があるという。  お琴を調べるのもいいが、その客がかえってからにしてくれと、山吹屋のおかみの泣くようなたのみに、このしろ吉兵衛も豆六も同情して、表で客のかえるのを待っていた。  その客が出てきたのは、四ツ半(十一時)ごろのことだった。  吉兵衛と豆六は、それをやりすごしておいて、お琴のへやへ踏みこんだが、そこへ近所の若衆が、ころげるように駆けつけてきた。  いま山吹屋を出た客が、むこうの横町でひっくりかえって虫の息だという。おどろいて駆けつけてみると、手首にポッツリまむしのかみ傷。  それがお琴の客だったことはいうまでもなく、お琴に名まえをきくと、本所一つ目に住んでいる薮原朴庵という医者だとわかった。 「そういうわけで、親分、このしろの親分が待っておいでになりまっさかい、大急ぎできておくれやす」 「なに、このしろ親分が待っていなさるのか。お粂、したくだ。辰もこい」  そこで、三人は大急ぎで、音羽へ駆けつけたが、その途中で、またもやへんなことにぶつかった。  武士と老比丘尼   ——七人比丘尼の怪奇な結束  このしろ吉兵衛の宅は、護国寺のすぐかたわらにある。  自身番もすぐ近くにあって、お琴も薮原朴庵の死骸も、そこへ引きとってあるというので、三人はまっすぐに駆けつけたが、と、その足音を聞きつけたのか、吉兵衛宅の軒下から、すいとはなれて逃げ出したあやしい人影があった。  辰がはやくもそれを見つけて、 「あ、親分、ありゃ妙椿《みょうちん》じゃありませんか」  その声をきくと、あやしい影は、いよいよ足をはやめて逃げ出した。  それはたしかに妙椿にちがいなかった。 「ちくしょうッ、あいつ執念ぶかく、お琴をつけねらっていやアがるんだ。辰、気をつけろ、あいつはまむしを持っているから用心しろ」  まむしときいて、いままで威勢のよかったうらなりの豆六は、またもや足がすくんでしまった。 「お、親分……」 「おお、豆六、てめえは音羽の親分にしらせてこい。だいじょうぶだ、ばばあはおれがつかまえてやる」  豆六をのこして、佐七と辰は、いっさんに妙椿のあとを追いかける。そのうちに、豆六の注進によって、吉兵衛はじめ子分のものが、おおぜいどやどや駆けつける。  妙椿は、年寄りのくせになかなかすばやく、あちらの軒下、こちらの塀陰《へいかげ》と、たくみにやみを利用して逃げまわっていたが、こうなると、もう袋のなかのねずみも同然。 「妙椿、待て!」  護国寺裏のくらやみで、もうひと足というところまで追いつめたが、そのときだった。  だしぬけに、かたわらのやぶ陰からおどり出したひとりの武士が、逃げていく妙椿のうしろから、ばっさりけさがけに切りつけたから、これには佐七もおどろいた。  一刀のもとに切り殺された妙椿の死骸をのりこえて、佐七は武士の行く手へ立ちふさがった。 「もし、お武家さま、しばらくお待ちくださいまし。どういう事情かは存じませんが、これはだいじな下手人、それをお切りになっちゃ、そのままではすみますまい」  佐七につめよられて、武士は当惑したように顔をしかめている。  みれば年若い実直そうな武士で、むやみに人を切るような人がらとはおもえない。そこへ辰をはじめ、吉兵衛や子分のものも駆けつけてきた。  一同は佐七の注意で、手ばやくまむしをたたき殺してしまうと、これまたズラリと武士を取り巻いたから、武士ももうのっぴきらなかった。 「いや、みなのもの、拙者がこの比丘尼を切ったには、ふかい子細があることだが、ここではいえぬ。どこか静かなところへ連れていってくれ」  あいてが案外すなおに出たので、佐七もそれ以上いじめる気はなかった。  そこで、妙椿の死骸は吉兵衛の子分にまかせて、佐七は武士をともなって、いったん吉兵衛の家の近所の自身番へ引きとった。そこでは、まむしにかまれた朴庵が、いま息を引き取ったところで、お琴はおろおろ泣いていたが、それでも妙椿が死んだときくと、ほっとした顔色だった。  こうなると、お琴もかくしてはいられぬ。そこで、つぎのような七人比丘尼の因縁ばなしを打ちあけたのである。  七人の比丘尼は、妙椿、妙雲、妙琴、妙照、妙蓮、妙光、妙徳といって、かれらはともに、北国のさる藩の百姓だったが、それが尼になって江戸へ出てきたのには、こういうわけがある。  三年ほどまえ、この藩では百姓|一揆《いっき》が起こった。  この一揆は、幕府の裁断で、領主は禄高《ろくだか》半減されたうえ他へ移封され、一揆のほうは、主謀者ともくされる七人がはりつけに処せられた。  こうして、片手落ちのない裁断でけりはついたが、うらみははりつけに処せられた七人の女房たちにながくのこった。  かれらは夫の菩提《ぼだい》を葬うために、尼になったのはよいが、旧領主にたいして、もっと手ひどい打撃をあたえてやろうと、七人結託して江戸へ出てきた。  そして、本所に巣をくって、復讐の機会をねらっていたが、あいてはかりにも国持ち大名、女の身ではしょせん蟷螂《とうろう》の斧《おの》だった。  七人の尼は、しだいにじれてきた。じれているうちはまだよいが、日がふるにしたがって、熱がさめてきた。これをみていきりたったのが、いちばん年かさの妙椿だ。  このうえは呪法《じゅほう》をもって、藩主をのろい殺すよりほかに方法はないと、奇怪な祈祷《きとう》をはじめた。  彼女は領主のわら人形をつくって、五寸くぎを打った。七人の女の血をわら人形に塗りつけた。がまやへびをとってきて、その生き血をしぼったりした。  そのうえに、じぶんのからだを傷つけて、のたうちまわりながら、奇怪な呪文を口走った。  そういうさまを見ているうちに、ほかの六人はしだいに気味がわるくなってきた。  うとましくさえなった。  そこへ起こったのがあのまむしさわぎで、青大将とまちがえて、うっかりとってきたまむしに、妙椿が手をかまれた。  まむしの毒で妙椿はものすごく狂いまわった。あまりのおそろしさに、妙光と妙徳がまず逃げた。  妙雲、妙照、妙蓮の三人も、妙椿の傷のいえるのを待って、これまた逃げてしまった。  こうして、同志に裏切られた妙椿は、悪鬼のようになって、姪《めい》の妙琴にあたりちらした。  さすがすなおな妙琴も、ついにたまりかねて、二回めのまむしさわぎで、朴庵《ぼくあん》をむかえにいったとき、じぶんの不幸をうったえた。  朴庵はそれほど悪いやつではなかったが、根が色好みであった。妙琴の美貌《びぼう》に目をつけると、親切ごかしにそそのかして、本所のおくの植木屋の、はなれ座敷へかくまったのはよいが、手ごめ同様にして、関係をつけてしまった。  あわれなのはお琴である。朴庵におしころがされ、むりむたいにからだを開かされ、燃えに燃えた男のからだを、じぶんのからだの奥ふかく感じたとき、いまこの朴庵に見放されてはいくところもない身の上と、観念のまなこをとじ、あいてのなすがままにまかせていたが、女の性《さが》のかなしさには、そのうちしだいに官能がかき乱され、じぶんでじぶんが制御できなくなってしまった。  朴庵にとっては思うつぼである。しめたとばかりにかさにかかって、からだごとぶっつけてくるのだからたまらない。ひさしく眠っていた女の本性が呼びおこされ、お琴はいつか、はげしく息をあえがせながら、力いっぱい男の首にだきついていた。  お琴もかつては亭主をもった女である。男の味はしっている。そのごかさなる不幸に髪そりこぼち、行ないすましてきたものの、いまあぶらぎった四十男に、寝てる子をおこされては、あとはあいての意のままである。  うちに女房子のある朴庵は、夜はぜったいにこなかった。往診のあいまをぬうてくるのだから、顔をみせるのはいつも昼だった。  お琴のかこわれている植木屋は、そうとうひろくて、おもやはひろい植えだめのむこうにあった。だから、障子をしめてしまえば、だれはばかるところはないとはいうものの、はじめのうちお琴は、おもやのおもわくもはずかしく、この昼下がりの情事にたいして、とかくひかえめになりがちだった。  しかし、それでは朴庵の気にいらなかった。この厚顔な四十男は、そのつど、お琴の肉をくらい、骨の髄までしゃぶらずには、彼女を抱いてはなさなかった。  そのうち、お琴もなれてきた。  それに、障子をしめきって、男とふたりで閉じこもってしまえば、なにをしているのか、されているのか、おもやのほうでもわかっているはずである。お琴もしだいに大胆になり、男の歓心をかうためには、どんなまねでもやってのけた。お琴にもだんだんそれがおもしろくなってきていた。  なくなった亭主は年もわかく、いなかっぺのことだから、することが万事ストレートだったが、四十男の朴庵は、それでは満足しなかった。ときにはカーブをまじえ、スライダーを投げ、ナックルをもちいた。お琴はいつか、この変化球の醍醐味《だいごみ》に惑溺《わくでき》してしまった。  ずにのった朴庵は、まっ昼間、お琴をすっぱだかにしたうえ、全身の器官を総動員して、お琴のからだをもてあそんだ。そんなとき、お琴はあられもなく、ふとんのうえをころげまわり、喜びのあまり失神することさえあった。  女は水のようなものだとはよくいった。  環境によって流れはかわる。あるときはゆるやかに、あるときは急に、そして、あるときははげしい奔流となってあわだち、またあるときはうずとなって旋回する。お琴はいまあわだち、旋回しているのである。そして、いったんこの味をおぼえてしまっては、むかしの単調な流れのなんとあじけないことよ。  こうして、朴庵は半年あまり、ぞんぶんにお琴のからだをもてあそんだのち、そろそろ髪の毛がのびてきたのをみすまして、とうとう奥の手を出した。  どうやらこのかくしごとが女房にしれたらしいこと、その女房が手のつけられぬやきもちやきであること、だから、いつなんどきこの家へ、かみそりをもってあばれこんでこないでもないなどと、まずお琴をおどかした。  しかし、これは単なる口実ではなく、事実でもあった。朴庵の女房の嫉妬ぶかさについては、おもやのひとたちからも聞いており、お琴はまえから、安からぬ思いをしていた。  だから、ここらで別れたほうがよいと思うが、おまえもどうやら男なしでは、一日も送れぬ性分になったようだし、じぶんとて、別れたあともときどきは会いにいきたいからと、ひどいやつで、おためごかしに知り合いの音羽の子ども屋へ身がらをあずけたのである。  しかし、朴庵がほんとうの悪党でなかった証拠には、売りとばしたのではなかった。ただし、お琴が承知するならば、荒かせぎにならないていどに、客をとらせてもよいという条件がついていた。こうしておけば、朴庵はすきなときにやってきて、ただ同様でお琴と遊べるわけで、そこいらにこの狡猾《こうかつ》な四十男の勘定高さがうかがわれた。  お琴はかって勤めのようなかたちで客をとった。このかいわいでは、お琴の器量はズバ抜けており、たちまちよい客がついたので、かかえ主も彼女のかって勤めにたいして、いやな顔もしなかった。  こうして、お琴はてきとうに客をとりながら、朴庵が五日にいちどくらいのわりあいでやってくると、いそいそと帯ひもといて身をまかせ、朴庵の腕のなかで、ほかの客にはみせぬ女の真情を、おしみなく吐露してもてなした。  無知で、しかも、ほかにいきどころのないお琴は、朴庵のこの措置を、心の底から感謝しているのであった。  いずくんぞ知らん、これが朴庵のいのち取りになろうとは。  さて、ひとりになった妙椿は、ますますものすごくなってきた。彼女は領主にたいする復讐より、同志にたいする憎しみでいっぱいになった。  彼女は江戸じゅうを托鉢《たくはつ》しながら、むかしの同志をさがしているうちに、まず、金杉で妙蓮に出会ったのでこれを殺した。  その妙蓮の口から妙照のいどころをきいたので、つぎにはこれを谷中で殺した。  そして、三度めに妙雲を比丘尼橋で殺したが、その口から、はじめて妙琴の消息をしった。また、朴庵が妙琴をかくしたこともきいた。  妙椿は怒りにふるえた。  そこで音羽へでむくと、朴庵のかえりを待ちぶせ、これを殺したうえ、妙琴をつけねらっているところを、とうとう、ああいうしまつになったのである。  朴庵のやつ、佐七をうまくあざむいたものの、もし、お琴のいどころがわかれば、じぶんの悪事が露見する。  そこで、お琴をまたどこかへかくすつもりで佐七とわかれると、すぐその足で音羽へかけつけたのだが、それが身の破滅となったのだから、これも色好みの果てかもしれない。  ここにふしぎなのは、妙椿がまむしをあつかいながら、どうしてじぶんだけ命をまっとうしたかということだが、これはおそらく前二回のまむし騒ぎで、一種の免疫ができていたのであろうという。  さて、これで七人比丘尼の因縁はわかったが、わからないのは妙椿を殺した武士だ。  武士は妙琴の話をききおわると、はじめて、じぶんの身分、素性を打ち明けた。  かれは野坂|弥十郎《やじゅうろう》というもので、七人比丘尼にのろわれていた藩主の家中のものであるといった。  藩では七人比丘尼ののろいなどゆめにも知らなかったが、先日、ふたりの尼が江戸藩邸へかけつけてきた。  ふたりはいうまでもなく、いちばんさいしょに逃げた妙光、妙徳だった。  かれらはちかごろ、あいついでおこる比丘尼殺しを聞いて、すぐ下手人に思いあたった。いずれはじぶんたちもねらわれる身だとおもうと、おそろしくてたまらなかった。そこで旧藩主へ事情を訴えて出たのだが、それをきいておどろいたのは藩主だ。  こういうことが公ざたになっては藩の恥辱である。そこで、家中のものに、妙椿を見つけしだい切って捨てろと申しわたしたのである。 「そういう事情ゆえ、これが公になっては主人の恥辱、藩中の難儀、なにとぞご内済にねがいたい」  とたのむ弥十郎のことばに、佐七と吉兵衛は顔見合わせていたが、やがて佐七はひざをすすめて、 「いや、よくわかりました。この話はこの場かぎりということにいたしましょう。そのかわり、野坂さん、わたしのほうにもお願いがございます」 「はて、お願いというのは?」 「ほかでもございません。お屋敷へ駆けこんだ妙光、妙徳、それにここにおりますお琴も、いったんは殿様をねらおうとしたにはちがいございませんが、いまでは心を改めているのでございますから、なにとぞ、ご寛大なおはからいを……」  それをきいて、弥十郎は喜色を満面にうかべた。 「その儀ならば、拙者身にかえてもおひきうけ申そう。妙光、妙徳は尼寺へいれてやりましょう。また、お琴は故郷へもかえりにくいであろうから、この土地において、きっと身のたつように計らってやりましょう」  そばできいていたお琴は、それを聞くと泣きだした。  さて、これで七人比丘尼の件はおさまったが、おさまらないのは豆六で、口のかるいきんちゃくの辰から、あの夜のいきさつを聞くと、さあ、えらいけんまくで、 「親分、これ、親分さんえ、子分の心、親分知らずとは、ほんまにあんたはんのことだっせ。あんたはんにすまんと思うさかい、わてら躍起になって、音羽を駆けずりまわっておりましたんや。それをなんやてえ。わてが遊びほうけていたなんて。わてら、くやしい、残念ですわ」  と、おんおん泣きだしたから、佐七はもう平あやまりにあやまって、当分、豆六のまえに、頭があがらないことになったものである。     女易者  おしゃべり床   ——やあ、珍しやなんのなにがし  柳原堤の西のはずれ、筋違《すじかい》御門内の、俗に八つ小路といわれる広場のほとりに、秋のはじめより、毎日店をはる女易者。  見台にかけた白布には、菊花堂一枝と、ながるるような世尊寺流の達筆で。——  これが当時たいした評判だった。  なんせ、女易者というのからしてもめずらしいのに、これがまた、すこぶる美形ときている。  もっとも、いっも編《あ》み笠《がさ》をかぶっているから、通りすがりでは顔はみえない。  しかし白綸子《しろりんず》かなにかの小そでに、色あざやかな紫の被布をきて、客のないときなどくの字なりにしょうぎに腰をおろし、朱羅宇《しゅらう》のキセルで、一服くゆらしているようすが、またとなくいろっぽいのである。  そこでつい、易者などに用もないはずのわかい者が、ふらふらと引き寄せられて、ありもしない縁談などを占ってもらおうという寸法だが、さて、女に手をにぎられながら、しみじみ編み笠のなかをのぞいてきた連中が、額をたたいていうのをきくと、 「いや、もうとんでもないこと。ああいうすがたのいい女には、えてして人三化け七などというものがあるもんだが、どうしてどうして、あの女ときたら……沈魚落雁閉月羞花《ちんぎょらくがんへいげつしゅうか》! ——いやもう、すごいこと、すごいこと!」  と、感動詞たくさんにひとりがいえば、 「いや、すがたもすがた、かたちもかたちだが、あの声はどうだえ。あれア京か大阪か。いや、やっぱり京にちがいねえ。ものやわらかな京ことばでよ。あんた、おからかいやしてもわかります、ひとり者やおいいやしても、手相を見ればおかみさんとのあいだに、お子さんが七人もおいでなはることがちゃんと出ておりますえ。と、いわれたときにゃ、おらあ、ぶるぶるッとしたぜ」 「うへっ、てめえ、七人も餓鬼があるのか」 「ほんとをいうと七人半よ。はんぶんはまだ、かかあの腹んなかにいるんだが、そこまではあの女易者にもわからなかった」  などと、たいへんな騒ぎ。  そのじぶんのことだから、京女がむやみに江戸へ出てくるわけのものではない。  ましてや、大道へでる女易者というのには、よくよくふかい子細があるにちがいないと、ひとの疝気《せんき》を頭痛にやむやつで、とりとめのないうわさをしているうちはまだよかったが、そのうちだれがいいだしたか、あれは公卿《くげ》の息女である。  公卿というのは日野大納言である。  日野大納言の息女が、なぜ江戸で、大道易者などをやっているかといえば、それは、ご公儀のようすを探るためである。  いまに京都と江戸のあいだに、ひと悶着《もんちゃく》起こるのである。  なんて、まことしやかに、言いふらすものが出てきたから、さすが、ものずきな兄い連もきみ悪がって、しだいに近寄らないようになったが、すると、ばったりこの女易者が、柳原堤にすがたをみせなくなった。——  というところから、この物語ははじまるのである。 「で、ねえ、あっしゃなにげなく、菊花堂さんのほうを見ていたんです。ちょうど客がとぎれたところで、下剃《したぞ》りの野郎も、つかいにいったきり帰ってこねえ。手持ちぶさたに、ぼんやりおもてを見ていたんです。菊花堂さん、ほら、あの土手のはずれの柳のところに、いつも店をはることになっていましたから、ここにすわっていると、よくみえるんです。すると、そこへやってきたのが、その浪人者で……いや、待てよ、千次郎のやつがやってきたなあ、それよりもまえだったかな。そうだ、千次郎のやつがやってきて、いや、やっぱり千次郎があとだ。浪人がやってきて、手相を見てもらったが、だしぬけに、やあ、珍しや、そなたはなんのなにがし……てなことをいったろうと、これはあっしの考えですがね。なにしろ、あいだがあるから声まではきこえねえや。そこへ千次郎がやってきて……いや、そうじゃねえ。やっぱり、千次郎がさきだ」 「おい、おい、親方、どうしたもんだ。おまえの話、なにがなんやら、さっぱりわけがわからねえ。雁《がん》じゃアあるめえし、あとだ、さきだって、その千次郎というのは、いったい何者だえ」 「へっ、どうもすみません。あっしゃ話がへたでね。つい、こんぐらがってしまうんです。人間がだらしねえから、話までだらしがねえって、よくかかあにしかられるんですよ。このかかあときたひにゃ、立て板に水でね。あいさつなんかもうまいもんでさ。このあいだなんかも……」 「おい、おい、おっさん、わいらおかみさんのこと聞きにきたんやあらへんぜ。菊花堂のことききに来たんや。うだうだいわんと、おまえが見たちゅうその話、はようしいな」  と、さっきからじれったそうに、貧乏ゆすりをしているふたりの男を、いまさらどこのだれそれと説明するまでもあるまい。  おなじみの辰と豆六なのである。  ところで、このふたりにきめつけられて、頭をかいている男というのは、柳原堤の髪結い床、いかり床の親方で文吉という。——  と、こういえば辰と豆六が、なぜここへやってきたか、おわかりのことと思う。  ちかごろ評判の女易者。菊花堂一枝が公卿《くげ》の息女といううわさだから、すててはおけない。  いまのところ、べつにこれということはないが、後日のために、真偽のほどを突き止めておかねばなるまいと、佐七の命令でやってきたのだが、そこではからずも辰と豆六が耳にしたのが、つぎのような話なのである。  柳原堤の三すくみ   ——菊花堂は血相かえて古道具屋へ  いまから三日まえの夕がたのことである。  いかり床の文吉が、くわえギセルで、ぼんやり表を見ていると、そこへやってきたのが、千次郎という男である。  この千次郎というのは、両国のならび床ではたらいているおなじ髪結い職人だが、色白の小いきな若者で、しじゅう、女出入りのたえない男である。  当人はごくおとなしい、ものやわらかな若者なのだが、よほど女好きのする人がらとみえて、いつも女のほうから水をむけられる。すると、気の弱い男のこととて、ついすえ膳《ぜん》を食ってしまうらしく、そういうことからよく悶着《もんちゃく》をひき起こす。  いちどのごときは、刃傷沙汰《にんじょうざた》までひきおこして、江戸におれないはめになった。  それはいまから三年まえのことで、爾来《じらい》、旅から旅へとわたりあるいていたが、それがひょっこり江戸へ舞いもどってきたのが、ことしの春のおわりごろ。  元来が腕のいい職人なのである。  それに、三年まえの騒動も、もうほとぼりがさめているので、世話するものがあって、両国のならび床ではたらくことになった。  こんどこそ心がけをあらため、稼業にはげみ、身をかためようと当人も決心していたし、はたのものもそのつもりで、おかみさんの候補者を物色していた。  その候補者は、世話好きな文吉親方によってさがされた。あいては神田川のひさごといううなぎ屋に女中奉公をしているお藤《ふじ》という娘である。  お藤は当年とって二十二で、娘としてはややとうがたっているが、顔だちもまんざらでなく、気性もさっぱりしている。  文吉親方のはからいで、ふたりを引き合わせたところが、双方とも気にいったようで、どうぞよろしく……と、そういう話があってから、ちかごろ千次郎がよく、このいかり床へやってくるのである。 「ところがねえ。どういうものか、このごろになって、その千次郎の足が遠くなったんです。呼びつけるとやってきますが、それが、おっかなびっくりというかっこうで、編み笠なんかかぶってくる。両国のほうへきき合わせてみても、ちかごろまた、稼業にはげみがなくなった。魂が宙に浮いているようだという。両国の親方も心配して、またなにかできたんじゃないかと気をつけているが、そんなふうもねえらしい。ところが、いまんなって気づいたんですが、千次郎がそんなふうになったのが、あそこへ女易者が出るようになってからのことらしいんです。もうすこしはやくそれに気づいてりゃ、なんとかして、どろを吐かせたんですがねえ」 「その千次郎という野郎がどうかしたのか」 「へえ、三日まえにここを出たきり、両国へもかえらず、どこへもすがたを見せねえんです」  辰と豆六は顔を見合わせた。 「三日まえといやあ、女易者がまだあそこへ店を出していたじぶんのことだな」 「そうなんで。ほい、また話がさきばしっちまったが、それにゃア、こういうわけがあるんです」  話をまえにもどして、さて千次郎がやってきたので、文吉は話しあいてになりながら、なにげなく、菊花堂のほうを見ていたが、するとそこへやってきたのが深編み笠をかぶった浪人だった。  浪人は菊花堂の前に立ち、手相を見てもらっているようすであったが、とっぜん、その浪人がなにか叫んだので、文吉がおどろいて見ていると、浪人は見台のうえから及び腰になって、女易者の手をとろうとした。とたんに、女易者はむこうから見台をつきたおすと、そばにあった今戸焼きの手あぶりを、浪人めがけて投げつけた。  ぱっと立った灰神楽《はいかぐら》——。  浪人がひるむすきに、女易者はすそをみだして、こちらのほうへ走ってくる。  例によって編み笠をかぶっているから、顔色はわからないが、おおきく波打つ肩の息づかいから、血相のかわっているのが想像された。  女はいかり床さして走ってきたが、そばまでくると、きゅうに方向をかえて、道を筋違《すじかい》に走っていった。  さて、こちらは浪人者である。  やっと灰神楽を払いのけると、きょろきょろあたりを見まわしながら、こちらへ走ってきたが、そのとき、かれにとってたいへんふつごうなことが起こった。  お城さがりの大名行列が、かれの行く手をさえぎったのだ。そのあいだに女はいかり床の筋向こうにある万古堂という古道具屋へとびこんで、そのままおくへ逃げこんだ。  おどろいたのは、そのとき万古堂の店先にいたおやじの弥平《やへい》だ。  九太夫《くだゆう》のようなめがねをかけて、あつい帳面をしらべていた弥平は、はとが豆鉄砲をくったように、目をパチクリさせていたが、やがてあたふたと、これもおくへはいっていった。  ちょうどこのとき、大名行列をやり過ごしたくだんの浪人、きょろきょろしながらこっちへきたが、文吉のすがたを見ると、つかつか店先へ寄ってきた。 「卒爾《そつじ》ながら、ちとお尋ね申したい」  と、せきこんで尋ねるそのことばには、あきらかに京なまりがあった。むろん、かれの尋ねるのは、女易者のゆくえであった。 「あっしゃなにも、女易者にゆかりのあるわけじゃねえが、その浪人の意気ごみが、あんまりにもすごいもんですから、ついうそをついちまったんです。知らぬといってのけたんです」  すると、浪人はすぐ道を突っ切って、むこうの万古堂へ立ち寄った。  そのとき、万古堂ではおやじの弥平、どう話ができたのか、また店へ出てきて、すました顔でそろばんをはじいていたが、これまた知らぬと、にべない返事をしたらしかった。 「そこで浪人は、あわてて須田町《すだちょう》のほうへいきましたが、しばらくするとまた引き返してきて、どうもこのへんが臭いと思ったのか、日が暮れてからも、むこうの土手の柳のしたにがんばっていましたが、ここにひとつ妙なことがあるんです」  これはあとで気づいたことだが、浪人が店先へやってきたときの千次郎の顔色が、ただごとではなかったように思う——と、文吉はいうのである。 「その浪人というのは、年のころ四十五、六、大あばたのあるこわい顔をした男でしたが、そいつが店先へきたときの、千次郎の顔色ったらなかったんです。うしろ向きになって、貸し本を見てるようなふりをしていましたが、まっさおになって、ぶるぶるふるえていやアがるんで」 「ふむ、ふむ。それで、浪人者はどうしたんだ。女易者をつかまえたのか」 「それがねえ。ずいぶんおそくまでがんばっていましたが、とうとうあきらめて、すごすご帰っていきましたよ。すると、まもなく、万古堂からこっそり出てきたのが女易者で、編み笠で顔をかくして、逃げるように筋違《すじかい》御門のほうへ立ち去ってしまいました」 「見台なんざどうしたんだ」 「なにもかもおっぽり出したまんまですよ。見台はその晩、おそくまでそこにありましたが、翌朝見るとなくなっていたから、だれかが夜のうちに取りかたづけにきたんでしょう」 「で、千次郎は?」 「それが妙なんです。千次郎のやつ、女易者の出てくるのをこっそりここから見ていたんですが、だしぬけにあっと叫んで顔色をかえると、あっしが声をかけるひまもなく、女のあとをおってとび出したんです。それっきりなんですよ。その日から、女易者もすがたをみせなければ、千次郎のやつも雲がくれしてしまいやアがったんです」  辰と豆六はまた顔を見合わせた。 「ところで、万古堂のおやじはなんといってるんだ。そのことについてなんにもいわねえのか」 「いえね。その晩、親父のほうからのこのこやって来て、さっきのを見ていたかというから、見ていたというと、女がかわいそうだからかくまってやった。キューチョーがなんとかで、猟師がどうしたとか、こむずかしいことをいったあげく、このことは黙っていてくれ、浪人者に恨まれちゃあとがめんどうだから、とこういうんです。あっしも、しゃべりゃしねえから安心しな、といっておいたんですが、千次郎のことが気になりますから、お耳に入れておきます」  いかり床の親分、文吉の話は、だいたい以上のとおりであった。  そして、ただこれだけの話なら、多少、妙なふしがあるにしても、八百八町のお江戸のすみでは、毎日どこかで起こりそうなできごとだったから、辰と豆六からその報告をきいた佐七も、そのままにしておいたが、あとにいたって思いあわせれば、文吉親方のこの話のなかにこそ、あのおそろしい事件のなぞが、かくされていたのである。  柳橋男女の死体   ——女は花のかんばせ切り刻まれて  それから十日ほどのちのこと、朝早く、お玉が池の佐七のもとへ、あわただしく、駆け込んできた男がある。  いかり床の親方文吉だった。 「こんなことは、いずれお耳にはいることだと思いましたが、少しでもはやいほうがよかろうと思って……じつは、けさがた、柳橋のきわに男と女のふたつの死体があがったんです」 「男と女の死体……? 心中かえ、それとも……?」 「いえ、心中かどうか知りませんが、女というのがれいの女易者の菊花堂なんです。そして、男というのが、このあいだの浪人者なんです」  飯を食っていた佐七は、それをきくと、おもわずポロリとはしを落とした。  そばで聞いていた辰と豆六も、顔色をかえてひざをすすめた。 「このあいだの浪人者というと、菊花堂を追っかけていったという男のことかえ」 「そうです、そうです、あの男です。けさはやく、柳橋のところに、男と女の死体が浮き上がったという評判だから、じつは、おもしろはんぶんに見にいったんですよ。すると、それが菊花堂にこのあいだの浪人だから、いや、おどろいたのおどろかないの、すっかり肝をつぶしてしまいましたが、せんだってのいきがかりがあるから、ともかくお知らせしておかなきゃあと、すぐその足でとんできたんです」 「それはどうもありがとう。ところで、親方、千次郎という男はそのごどうしたえ」 「それがねえ、あいかわらず行くえがわからないんです。両国の親方やひさごのお藤も心配して、占い者に見てもらったり、巫女《みこ》に口寄せしてもらったりしているんですが、いっこうに験《げん》がねえようで……そこへもってきて、けさの一件でしょう、あっしゃまったくぞっとしました。この調子じゃ、千の野郎も……」  ぞくっとしたように、肩をすくめる文吉親方は、くちびるの色まで土色になっていた。  佐七はまゆをひそめて、 「すると、けさの死体に、なにかむごたらしいことでもあったのかえ」 「むごたらしいもなにも、あなた、菊花堂さんはむちゃくちゃに花の顔《かんばせ》をきりきざまれて、相好のみわけもつかなくなっているんです」  それをきくと、佐七をはじめ、辰と豆六の三人は、おもわずどきりと顔を見合わせた。 「そして、浪人のほうはどうなんだえ」 「へえ、浪人のほうもふたとこみとこ、刀傷があるうえに、のどをぐさりと突かれているんで、いやどっちも二目とは見られぬおそろしい死にざまでございましたよ」  文吉はいまさらのように息をのむ。  佐七はひざをすすめて、 「ときに、その菊花堂だがね、いったいどこに住んでいたのか、おまえさん知っちゃいねえかえ」 「いえ、それならわかっているんです。うちへくる若い者で、いちど菊花堂のあとをつけてったやつがあるんです。じつは、千次郎が雲がくれしてからのち、もしやとおもって、あっしゃ三味線堀の柘榴稲荷《ざくろいなり》の裏にある由兵衛《よしべえ》という大工の棟梁《とうりょう》をたずねていったんです。その由兵衛というのが、菊花堂をかくまっていたんですがね。ところが、浪人者との一件があった日以来、菊花堂はその由兵衛のうちへもかえってないらしいんですよ」 「その由兵衛というのが、菊花堂をかくまっていたというのは、どういうわけだ」 「それはこうだそうです。この春、由兵衛さんは、お伊勢《いせ》まいりにいったんですが、そのかえるさに女がひとり、ごまのはえにつかまって難渋しているのを助けた。それがつまり菊花堂さんなんですね」 「なるほど、それで……?」 「名まえはなんでもお菊といって、尋ねるひとがあって、京から江戸へくだるというので、いっしょに江戸までつれてきたんですが、きいてみると、江戸にはひとりも身寄りがないという」 「そこでうちへおいたのか」 「へえ、そうだそうです。そのうちに、ただ遊んでいてもつまらないからと、本人のほうからいいだして、八つ小路に大道易者で出るようになったんだという話です」 「すると、易の心得は以前からあったんだね」 「そうらしいんです。由兵衛さんの話によると、氏素姓のことはきいてくれるなと、ひとことも話さなかったそうですが、立ち居ふるまい口のきき方、それゃアもうたいしたもんで、公卿《くげ》の息女といううわさも、まんざら、あてずっぽうでもなかったかもしれぬと、由兵衛さんも首をかしげていましたよ」 「いや、よく知らせておくんなすった。それじゃさっそく出向いていくが、あとでまたおまえさんのところへ寄らせてもらうかもしれねえ」  と、文吉をかえした佐七は、辰と豆六にいいふくめて、念のためにもういちど由兵衛をしらべさせることにして、じぶんは柳橋へ出向いていった。  杵屋《きねや》お登女《とめ》   ——心中は心中でも無理心中でしょう 「おや、いらっしゃい。やっぱり親分がいらした。きっと、おみえになるだろうと思って……」  柳橋のたもとにある自身番へはいっていった佐七は、のっけから、なまめかしい声をあびせかけられて、おもわずまぶしそうに、あいての顔をみなおした。 「おや、おまえさんは久松町の師匠じゃないか」  自身番の上がりがまちに、くの字なりに腰をおろして、町役人あいてに話しこんでいた女は、杵屋《きねや》お登女《とめ》といって、久松町で長唄《ながうた》の師匠をしている女である。  おさらいの会やなんかで、佐七も二、三度顔をあわせたことがあるが、三十をこした大年増のくせに、いやにおしろいの濃い、世間ではあまり評判のよくない女である。  佐七はいぶかしそうにまゆをひそめて、 「師匠がどうしてここへ……」 「あら、親分はご存じじゃありませんの、けさの心中の死体を見つけたのはわたしなんですよ」 「ほほう、おまえが……」 「ええ、そうなんですよ。わたしはちかごろ、そこの第六天稲荷へ朝参りをしているんですけれど、けさもお参りしようと思って、橋の上まできて、ひょいと下をみたところが、あの心中の死体でしょう。わたしびっくりしてしまって……」  ふたつの死体は水から引き上げて、自身番の土間にこもをかぶせておいてあった。  佐七はそのこもをちょっとめくってみたが、あまりのむごたらしさにまゆをしかめた。  文吉のことばにうそはなく、菊花堂の顔は完膚なきまでに切りきざまれ、相好のみわけはまったくつかない。このほかにも二、三カ所手傷をうけていたが、致命傷となったのは、乳をえぐられたひと突きだったらしい。  浪人者のほうも、二、三カ所切られているが、さいごにいのちを奪ったらしいのどの突き傷がものすごかった。 「ご検視のだんな衆は、これでもこのふたりを、心中といっているんですかえ」  佐七はこもをおろすと、町役人とお登女のほうをふりかえった。 「いえ、しかし、心中は心中でも、得心ずくの心中じゃない。つまり、男のほうからしかけた無理心中だろうと、こうおっしゃるんです」 「なるほど、そうすりゃアつじつまがあうな。しかし、師匠、おまえこのふたりを知っているのかえ」 「わたしが……? どういたしまして。なんでわたしが知りますものか」 「しかし、心中だなんて、なんだか見てきたようにいうじゃないか」 「あら、おほほほ、わたしはただ、じぶんが見つけた死体だから、ちょっとひとごととは思えないんですよ。講釈師見てきたようなうそをいいとか。どっちにしても、わたしにかかりあいのないこと。親分、おやかましゅうございました」  お登女は褄《つま》をとって、すうっと出ていった。  佐七はなんとなくふにおちかねるふぜいで、しばらくそのうしろ姿を見送っていたが、それからまもなく、自身番を出た佐七が、柳原土手のいかり床へやってくると、親方の文吉が、待ちかねていたようにひざを乗りだした。 「親分、おそかった、おそかった。もうひと足早く、やってくれゃアよかったのに」 「はてな、なにかあったのか」 「へえ、じつは、ちょっと妙なことがあったんです」  文吉親方の話によると、こうなのである。  さっき佐七とわかれてかえってくると、そこの土手のへんを、妙にうそうそと歩きまわっている男があった。その様子が、なんとなく、だれかを捜しているらしいので、文吉がそれとなく様子を見ていると、まもなく男は意を決したように、いかり床のほうへやってきた。 「ところで、その男がなにを尋ねたとおぼしめす。このあいだじゅう、ここへ店を出していた、菊花堂という女を知らないかと、こう尋ねるんです」 「ふむふむ、それで……?」 「それで、そのときあっしがもうすこしおちついて、逆にあいてにかまをかけてやるほどの才覚があれゃアよかったんですが、ついはやまって、けさの心中の一件を、ベラベラとしゃべっちまったんです。すると、やっこさん、まっさおになって、ものもいわずにここをとび出しちまって……」 「つまり、取り逃がしたんだな。それゃざんねんなことをした。いったい、それはどんな男だったえ」 「ところが親分、天網|恢々《かいかい》疎にしてなんとやらで、取り逃がしたのはあっしの手抜かりだが、ここにいるお藤坊が、ちゃんとむこうを知っているんです。おっと、お藤坊は親分にお目にかかるのははじめてだったな。親分、これが千次郎のやつと話のある、ひさごのお藤なんです」  さすがにそういうところに奉公しているだけあって、お藤はしっかりした娘だったが、佐七にじっと顔を見られると、おもわずうすくほおをそめた。 「おお、それじゃおまえさんがお藤さんか。そして、お藤さん、その男というのはだれだえ」 「はい、日本橋の紀の国屋さんの一番番頭、又右衛門《またえもん》さんでございます。うなぎがおすきで、ひさごへちょくちょくおみえになりますから、わたくしはよく存じております」  日本橋の紀の国屋ときいて、佐七はおもわず目をみはった。  紀の国屋といえば、お城ご用の呉服屋で名字帯刀も許されており、江戸では一といって二とはさがらぬ大町人である。  女讐《めがたき》ねらい   ——いまの言葉でいえば性の反逆で 「へへえ、紀の国屋がこんどの事件に、かかりあいがあるんですって? そういやア親分、紀の国屋の本店は、たしか京都でしたぜ」 「そやそや、烏丸《からすま》の大通りにある紀の国屋ちゅうたらたいしたもんだす。すると親分、菊花堂が公卿《くげ》の娘やちゅう話は、やっぱりほんまだっしゃろか」 「さあ、なんともいえねえが、紀の国屋の一番番頭ともあろうものが、じきじき柳原土手まで出向いてくるというのは、よくよくのことにちがいねえ。ときに、おまえたちのほうはどうだ、由兵衛からなにかききだせたか」 「それがねえ、べつに耳新しいことは、なにひとつないんですよ。万事はけさ、いかり床の親方が話していたとおりです」 「いったい、その由兵衛というのはどんな男だ。近所の評判などきいてきたろうな」 「そこは抜かりはおまへん。ほうぼうきいてきましたが、だれにきいても評判のええ男や。菊花堂のめんどうをみていたのも、まったく親切ずくからで、ふかい子細はなんにも知らんらしい」 「ふむ、するとこれゃどうしても、紀の国屋の番頭にあたってみなきゃアなるめえな」  町人とはいえ、あいてはなにしろ名字帯刀御免という紀の国屋の番頭なのである。  ひとすじなわではいくまいと思ったが、そんなことにしりごみしていては、御用聞きはつとまらない。佐七はその晩、本石町にある又右衛門のすまいを訪れた。  ひとくちに番頭といっても、そんじょそこらの小店《こだな》とちがって、紀の国屋の大屋台をせおっているだけあって、又右衛門の家はたいしたものだった。  その構えをみただけで、こいつはすなおに会うかどうかと、佐七は心中あやぶんだが、名刺をつうずると、意外にあっさりとおされたのが、おくの茶室の四畳半。  待つほどなく、あらわれた又右衛門というのは、五十前後のりっぱな人がらだった。 「おはつにお目にかかります。あっしゃ神田お玉が池の……」  と、佐七がかたぐるしく切りだすと、又右衛門は目じりにしわをよせて、おだやかにわらった。 「いやいや、あいさつは抜きにいたしましょう。お名まえはかねてよりきいております。じつは、こちらから使いを出そうかと思っていたところでした」 「へえ……?」  佐七はさぐるようにあいての顔を見る。 「いや、おまえさんが怪しむのもむりはない。これは紀の国屋の外聞にもかかわることだから、むやみにひとには話せない、そこをおまえさんを見こんで打ち明けるのだから、そのおつもりで……」 「へえ、よくわかりました。で、お話というのは」 「ほかでもない。おまえさんもそのことできてくだすったんだろうと思うが、あの菊花堂のことでな」  と、そこで又右衛門がうちあけた話というのはこうである。  紀の国屋の本店が、京都にあるということはまえにもいったが、その本店に菊野という娘があった。  土地のならわしで菊野はとしごろになると、行儀見習いという名目で、さる公卿のもとへ奉公にあがった。  名まえははばかりがあるからここには略すが、あいては当時|京洛《けいらく》に、風流貴公子の名をうたわれた眉目《びもく》しゅうれいの大納言《だいなごん》であった。  菊野はいつかこの大納言の寵愛《ちょうあい》をうけるようになったのである。  菊野もむろんこの貴公子に、ふかい思いを寄せていたから、そのままふたりの仲がゆるされれば、市が栄えてめでたし、めでたしというわけだが、そうは問屋がおろさない。  そこにいろいろ複雑な事情があって、菊野はついに大納言家の侍、飯塚《いいづか》左門というものの妻として、さげわたされることになったのである。  いまのことばでいえば、女性の悲劇とかなんとかいうところだろうが、当時にあっては、こういうことは珍しくなかった。  多くのばあい、女はそのまま泣き寝入りして、境遇に順応していったものだが、菊野はその当時の女としては、珍しく個性がはっきりしていたとみえ、この処置にすくなからず不満をもった。  かててくわえて、彼女の夫となった飯塚左門というのが、菊野とは二十もとしが違ううえに、大あばたの醜い男とあっては、菊野はいよいよおさまらなかった。 「そういうわけで、とかく夫婦仲がおもしろくなかったところへ、天魔が魅入ったとでも申しましょうか、菊野さまがふらちをはたらいて……」  いまのことばでいえば、性の反逆というところだろう。  夫の目をしのんで、菊野がねんごろになったあいては、わたりものの髪結い職人——ときいて、佐七はおもわずひざを乗り出した。 「なるほどそれで、菊野さんはこの江戸へ……」 「そうです。その髪結い職人というのが、あんがい気の小さい男だったとみえて、途中でこわくなったらしく、菊野さまをすてて逃げたんです。そのあとをしたって、菊野さまも京を出奔した。こうなると、さあ、亭主の左門さんも面目にかけてもすててはおけない。見つけしだい女讐《めがたき》成敗せにゃならぬと、これまた京を出奔した……と、こういうたよりが本店から、こちらの主人のもとへまいったのが、いまからひと月まえのこと」  たといふらちな娘でも、親の身としてはふびんがかかった。  そちらへたよっていったら、左門の目にかからぬうちに尼にでもして、どこかの尼寺にいれてくれと、涙ながらの書状であった。  そこで、江戸の紀の国屋でも、菊野のあらわれるのをきょうかあすかと待っていたが、いつまでたってもあらわれない。かえって左門のほうがさきにやって来て、菊野をだせとこわ談判。 「左門さんはてっきりこちらで菊野さまをかくまっていると思いこみ、たびたび厳重なかけあいにこられましたが、そのうちに、疑いが晴れたのか、ばったりみえなくなりました。ところが、いまから十日ほどまえ、こんどはふいに、菊野さまが駆け込んでこられたのでございます」  話をきくと、菊野はそれまで下町にかくれて、毎日、柳原へ女易者で出ていたという。  そこで、ともかく紀の国屋では、菊野をひとめにつかぬところへかくしておいたが、そのうちにこの菊野の正体が、だんだん怪しく思われだした。  話につじつまがあわぬところがあり、だいいち、京ことばがまんぞくに使えないのである。  ひょっとすると、にせものではあるまいか。 「へへえ、すると、こちらさんでは、どなたも菊野さんをごぞんじないので?」 「はい、なにしろ京と江戸とはなれておりますから、だれも菊野さまを見知っているものはありませぬ」 「なるほど、それで……?」 「そのうちに、いよいよ不審のかずかずが多くなりましたので、これはいっそ、左門さんに突きあわせてみたら……」 「なるほど、それは妙案ですね。それで……?」 「それで、ゆうべその手はずをしたのでございます。すると……」 「すると……?」 「はい、むこうでもこちらのけはいを察したのか、三百両という金を盗みだし、姿を消してしまったのでございます」 「それで、左門さんは……?」 「いえ、それがおみえにならないんです。それですから、なんとなく心もとなく、けさがた柳原へ、それとなく、菊野さまのまえの住まいを聞きに出かけたのでございます」  と、そこで又右衛門は、ふかいため息をつくと、 「うわさにきくと、女易者と左門さんらしいふたつの死体があがったとのこと。こうなると隠していてもいつかはしれよう。これはいっそこちらから打ち明けて、それで少しでも探索の手助けになれば、それをてがらに、なるべくことを内分にすましていただきたいと思いまして」  さすがは大店《おおだな》の番頭だけあって、ことをわけての話であった。 「いや、よくわかりました。柳橋にあがった死体が、ほんとの菊野さんにしろにせものにしろ、きっと、こちらさんの名まえの出ぬように取りはからいますが、ときに、こちらへ菊野さんと名のってのり込んできた女、それはいったい、どんな女でございました。なにか目印になるようなものはございませんでしたか」 「目印といえば、おお、そうそう、右の手に大きな三味線の撥《ばち》だこがありましたが、それなども、菊野さまにはにあわしからぬこと」  撥だこときいて、佐七は首をかしげた。  けさ柳橋にあがった死体には、たしかに撥だこなどなかったのである。  佐七はさらに又右衛門から、菊野と名のってきた女の人相風俗などこまごまときいていたが、そのうちにおもわずかれは、ぎょっと息をうちへ吸いこんだ。  なんと、又右衛門の話による女の人相は、長唄の師匠|杵屋《きねや》お登女《とめ》にそっくりではないか。  だまされ文吉   ——鰻《うなぎ》のあぶらっこいところを手みやげに  柳原土手にあるいかり床の親方文吉は、このところ、面くらうことばかりで、あいた口がふさがらぬ——という毎日を送っている。それというのがこうである。  柳橋に女易者と浪人者の死体があがった。そのつぎの晩、表がなんとなくそうぞうしいから、文吉がなにげなくのぞいてみると、十数名の捕手《とりて》が、筋向こうの万古堂をとりまいて御用御用というさわぎ。  いったい、なにごとが起こったのかと思っていると、やがてなかから数珠《じゅず》つなぎになってあらわれたのは、おやじの弥平をはじめとして、数人のあらくれ男。  しかも、そのあらくれ男のなかにまじって、紅一点とばかりに、長唄の師匠、杵屋お登女が引かれていったのだから、いや、文吉が驚いたのおどろかないのって。  さらにそれから二、三日たつと、万古堂から引かれていった一味こそ、女易者と浪人者を殺した下手人とわかったから、文吉はいよいよ、あいた口がふさがらなかった。  すると、それから四、五日たって、ひょっこりやってきたのが人形佐七だ。 「おや、親分、いらっしゃいまし。こんどはまたおてがらでございましたが、それにしても、万古堂のおやじが女易者を殺した下手人とはおどろきましたねえ。あっしにゃまるで寝耳に水で……」 「はっはっは、親方、このことについて、きょうは礼にきたのよ。おれが弥平に目ぐしをさしたのも、みんなおまえさんの話のおかげだ」 「へえ? あっしがどんなお話をいたしましたかしら」  文吉は目をパチクリさせておどろいている。 「ほら、いつかここで、女易者と浪人者のあいだに、ひと悶着《もんちゃく》あったろう。あのときのおまえさんの話よ。女易者は万古堂へとびこんだが、その晩、浪人者たちの去るのを待って、こっそりあそこから脱け出した。ところが、編み笠で顔をかくして出てきた女のすがたをみたとき、千次郎があっと叫んでおどろいた……と、そうおまえさんは、辰や豆六にいったそうだね」 「へえへえ、そのとおりです。しかし、それが……」 「千次郎がなぜおどろいたのか。なぜ、あっと叫んで顔色かえたのか。つまり、それは、万古堂から出てきた女がみなりこそ女易者だが、そのじつ、ほんとの菊花堂ではないことに、千次郎が気がついたからよ」 「あっ、それじゃ、あのときの女は……」 「杵屋お登女よ。それじゃなぜお登女が身代わりをつとめたのかといえば、それは、おまえさんの目をあざむくためよ。あの万古堂というのは、おもてむきは古道具屋だが、そのじつ、けいず買いの親玉よ。あの日も万古堂の奥座敷にはぬすっとがおおぜい集まっていて、どろぼう市が立っていたのだが、そこへ菊花堂がとびこんだのだから、ただじゃすまねえ」 「あっ、なるほど。菊花堂さんはそこで、悪者どもに取り押さえられたんですね」 「そうよ。しかし、そのまま菊花堂が出ていかなきゃ、おまえさんに怪しまれる。そこで、その場に居合わせたお登女が、菊花堂の身代わりをつとめて、まんまとおまえさんをごまかしたのよ」 「ちくしょうッ」  さて、お登女はそのさい、文吉親方の目をごまかしさえすれば、それで役目はおわったのだが、あとで菊花堂のたもとを調べてみると、二、三通の書面が出てきた。  それによって、はじめて菊花堂の正体を知った彼女は、だいたんにも紀の国屋へ乗り込んで、女天一坊をきめこもうとしたが、あやうくそれがばれそうになってきたので、三百両を盗みだし、逃げ出そうとしたところを、へいのそとで左門にぶつかったのである。  左門はてっきり菊野とおもって抱きとめたが、顔を見るとちがっている。  そこでお登女を責め問うて、菊野が万古堂の土蔵のなかに押し込められていることをはじめて知った。そこで、お登女を案内者にして、万古堂へ乗り込んだのだが、ぎゃくに悪者どもの手にかかって、あえない最期をとげたのである。  ここに、哀れをとどめたのは菊野である。  餓狼《がろう》のような悪党どものなかへとびこんで、女のからだがぶじでいられるはずがない。しかも、菊野は京女、やじうま連中のあいだでも評判になったほどの美貌《びぼう》のもちぬし、恥をしらぬ悪党どもが、これをただでおくはずがない。  どうせ生かしておけぬ女だが、これだけのべっぴんを、ただむざむざと殺してしまうのはもったいない。いざというときがやってくるまで、できるだけながく生かしておいて、かわるがわる賞翫《しょうがん》させてもらおうじゃないかということになり、十日あまり、土蔵のなかにつながれていたのだが、菊野にとってはそのあいだが、死にもまさる生き地獄だったにちがいない。  昼となく夜となく、入れかわり立ちかわり、餓狼《がろう》のような悪党たちがやってきて、好きほうだいに、京女の柔肌《やわはだ》をもてあそんだ。  悪党たちは、万古堂のおやじをふくめて七人いたが、太っちょもいればやせっぽちもいた。ノッポもいればチビもいた。年は万古堂のおやじをかしらに、いちばん若いのはまだ十六。  しかし、かれらに共通していることは、飽くことを知らぬ貪婪《どんらん》さと、恥知らずということである。こういうはげたかの群れのような連中が、よってたかって、菊野のからだをついばんだ。  どうかすると、三、四人かちあうことがあるが、かれらはめいめい、じぶんの好みにしたがって、菊野のからだを賞翫した。あまりのしつこさに、菊野はいくどかあらくれ男の腕のなかで気をうしなった。  菊野はなんど舌かみきって死のうと思ったかしれないけれど、この京女にはそれだけの勇気がなかった。そして、とうとう、さいごの破局がやってきたのである。  よってたかって、左門を殺してしまったかれらは、もう、これ以上菊野を生かしておくわけにはいかなかった。さんざんおもちゃにした女を、かれらは鶏でも締めるようにして殺してしまった。  そして、彼女は、夫の死体とともに、川へ流されたのだが、これもなにかの因縁だろうと、のちに世間で取りざたした。  そのとき、菊野の顔を切りきざんだのは、もし紀の国屋のものに見られても、人間が違っているということをわからなくするためだった。 「なるほど。それで話はよくわかりましたが、しかし、親分、それにしても、千次郎のやつはどうしたんでしょうねえ」  文吉親方はまた、くらい面持ちになったが、それをきくと、佐七はきゅうに爆発するような笑い声をあげたのである。 「親方、おまえもよっぽどお人よしだぜ」 「とおっしゃいますと……?」 「千次郎のやつはな、ここからお登女を追って出たが、とちゅうでバッタリお藤坊にあったんだ」 「げっ」 「そこで、きゅうに気をかえて、お藤坊にわけを話して、あの娘の家の押し入れのなかへかくれていたのよ」 「げっ、げっ、げっ」 「お藤もかわいい男のことだ。おまえさんや両国の親方にもいっさいないしょで、千次郎を押し入れのなかにかくしておき、せいぜいお手のものの、うなぎのあぶらっこいところなんどを手みやげにして……」 「ち、ち、ちくしょう!」 「千次郎は千次郎で、お藤坊にこってり精をつけてもらったもんだから、昼でも夜でも、すきなときに押し入れからはいだし、お藤坊と抱きついたり、吸いついたり、あげくのはてにゃ裸踊りよ」 「ち、ち、ちくしょう! ちくしょう!」 「はっはっは、そら、むこうからふたり仲よくやってきたぜ」 「ち、ち、ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!」     狸《たぬき》の長兵衛《ちょうべえ》  押しかけたぬき女中   ——あさましい人間道におとされます  たぬきの長兵衛《ちょうべえ》が殺されたといううわさは、当時、江戸じゅうの大評判だった。  たぬきの長兵衛というのは、目貫彫《めぬきぼ》りである。薬研堀《やげんぼり》のうらだなにすんでいて、たぬきばかり彫っているところから、こういう異名がある。  たぬきよりほかに彫らないが、そのかわり、たぬきを彫らせると名人だというので、注文はずいぶんあるが、これが名人かたぎというのか、気がむかないとしごとをしない。  たとえ、あいてが大名|旗本《はたもと》でも、いやなときはいやだとばかり、ひきうけてから半年一年たっても、できないというのは珍しくない。  業をにやした注文主が、うっかり権勢をかさにきて、催促がましい口のききかたでもしようものなら、さあたいへん、ヘン、かってにしやァがれと、しりをまくるのだから始末におえない。  好物は、一にも酒、二にも酒、三にも酒。仕事をしないで、酒ばかりくらっているから、家のなかは火の車だ。  二、三度、女房を持ったこともあるが、いつも長つづきしない。むこうから、あいそをつかしておん出てしまう。  四十づらさげて、いまだにやもめ暮らしだが、ご当人は、けっきょくこのほうが気楽でいいと、しごくのんきなものである。  こういう人物にかぎって、外にはいい。ひとのことだと、借金を質においてもつとめるから、長兵衛さん、長兵衛さんと、世間の気受けはまことによろしい。  その長兵衛さんが死んだのである。いや、殺されたのだ。  しかも、それがまことにむざんな殺されかただったから、近所の衆がおどろいたのもむりはないが、これがぱっと江戸じゅうの評判になったのは、事件の起こるすこしまえ、ちょっと妙なことがあって、とかくたぬきの長兵衛の名が、世間の口のはにのぼっていたからである。  妙なことというのはこうだ。秋のおわりの、小雨のそぼふる晩のこと、れいによって長兵衛が、一升どくりをひきつけて、ちびりちびりとやっていると、 「おじさん、こんばんは」  と、ガタピシの格子《こうし》をひらいて、はいってきたものがある。 「おや、だ、だれだえ」  長兵衛はすでに、かなり酔いがまわっている。  酔眼もうろうと、上がりがまちをふりかえると、はいってきたのは、十四か十五の小娘だった。髪を切りかむろにして、麻の葉つなぎの、赤い着物をきているのが、めっぽうかわいい。  娘はにっこり、ひとなつこい微笑をうかべると、 「おや、おじさん、ごきげんですこと。お酌《しゃく》をしましょう」  と、断わりもなしにあがってくると、ぴったりと長兵衛によりそって、一升どくりをとりあげたから、おどろいたのは長兵衛で。 「お、おまえはだれだい。どこの子だ」  と、目をパチクリさせている。娘はにっこりわらいながら、 「あら、いやなおじさん、あたしを見忘れちまったんですの」 「見忘れたあ? はてな。どこの子だっけねえ。おまえのようなかわいい娘を、ついぞ見たこニはねえが」 「ほっほっほ、あんなうまいことをおっしゃって……でも、これはあたしが悪かったわ。おじさんにお目にかかったとき、あたし、こんな姿じゃアなかったんですもの。おじさん、きょうはありがとう。あたしはきょうおじさんに、いのちを助けていただいたものよ」 「はてね。おれにいのちを助けられたもの——? これ、ねえちゃん。おまえ、ひとちがいしてるんじゃねえかえ。おれはだれも助けたおぼえが」 「まあ、おじさんたら、ものおぼえがわるいわねえ。ほら、きょう谷中《やなか》で、あたしが子どもにつかまって、すんでのことに殺されるところを、おじさんがとおりかかって、助けてくだすったじゃありませんか」 「きょう谷中で、子どもにつかまって、すんでのことに、殺されるところだったア? げ、そ、そ、それじゃおまえはあの子だぬき……」  長兵衛は肝をつぶしておどろいたが、娘はあいかわらずにこにこして、 「ええ、そうよ。あれからあたしおうちへかえって、おっかさんにその話をしたら、おっかさんが涙をながしてよろこんで、そういうことなら、このまま捨ててはおけない。これから行って、長兵衛さんにご恩返しをしておいでと、こんこんといいふくめられて、あたしやってきたんです。おじさん、どうぞよろしく」  と、もみじのような手をついてあいさつしたから、長兵衛はいよいよおどろいた。 「じょ、じょ、冗談じゃねえ。ひとをからかうにもほどがある。いいかげんにしてくれ、ひとが酒に酔ってるとおもって……」 「あら、あんなことをおっしゃって……そんなふうに疑われては、あたし立つ瀬がありません。おっかさんのおっしゃるのに、ちかごろ人間の世界では、人情が紙のようにうすくなって、ご恩を忘れるものがたくさんあるとやら。しかし、たぬきの眷属《けんぞく》では、そういう不心得ものはひとりもない。おまえいって、ようく長兵衛さんにご恩返しをしておいで。もしそれができないならば、眷族衆にあわせる顔がないから、久離《きゅうり》きって勘当する。たぬきの眷属から追放して、人間道におとしてしまうとおっしゃって……」 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。その人間道におとすというのは、どういうことだ」 「あれ、おじさんがたは、よくいうじゃありませんか、畜生道におとしてしまうと。たぬきの世界では、それを、人間道におとすというんです」 「ふうむ」  と、長兵衛はいたく感心した。 「そういうわけですから、おじさん、どうぞあたしに、ご恩返しをさせてください。それでないと、あたし、あさましい人間道におとされます」  いうことが、いちいち変わっている。  長兵衛もだんだんおもしろくなってきて、 「ふむ、それゃいいが、しかし、どういうふうにして、ご恩返しをしてくれるんだえ」 「はい、あたしはこういうふつつか者ゆえ、なにもできませんが、せめておそばにおいていただいて、すすぎせんたく、針仕事、身のまわりのお世話をさせていただきとうございます」 「なるほど、なるほど、女中がわりに、働いてくれようというんだね。それもけっこうだが、おまえも気がきかねえじゃねえか。おなじ化けるなら、もうすこし年増《としま》に化けてきて、ついでに夜のお伽《とぎ》もしてくれりゃアいいのに」 「あれ、いやなおじさん。だって、わたしはまだほんの子だぬきですもの。この年ごろに化けるのがせいぜいなんです」 「しまった! それじゃもうすこし、年増のたぬきを助けるんだった。はっはっは、まあ、いいや。それじゃせいぜいご恩返しをさせてやろうよ、ときに、おまえの名はなんというんだ」 「はい、紅葉《もみじ》と申します」 「なに、紅葉? 紅葉は鹿だぜ。いのししははぎよ。まア、いいや。ときに、紅葉や」 「はい」 「あいにく、酒が切れてさびしいところだ。ご恩返しの手はじめに、おまえの神通力でなんとかならねえか。ただし、馬のションベンはごめんだが」 「あれ、それならば、手みやげ代わりに用意してまいりました。おじさん、これを……」  長いたもとをひらりとひるがえすと、ああらふしぎ、あらわれいでたのは灘《なだ》の生一本。  長兵衛、これには額をたたいてよろこんだ。 「こいつは便利だ。それじゃいよいよおいてやるから、せいぜいその調子でご恩返しをしろ」  のんきなやつもあったもので、ふかくも怪しまず、紅葉、紅葉と寵愛《ちょうあい》して、なかよく暮らすことになったから、おどろいたのは近所の衆で。 「ちょっと、為さん。きいたか。長兵衛さんのところへちかごろきた、紅葉というのはたぬきだってさ」 「そうだってなア、そいつがおまえ、おじさんおじさんとだいじにしてよ、すすぎせんたく、針仕事、飯のしたくから便所のそうじまで、くるくるこまねずみのようにはたらいたあげくが、夜は長兵衛の肩をもむ、おまけに、あの長いたもとをひらりとふると、一升どくりが現われるというんだから、うまい話じゃないか」 「まったく長兵衛め、うけにいったとはこのことだ。おい、こちとらも谷中へいって、たぬきを助けてこようじゃねえか」  と、わいわいという騒ぎ。  それが江戸じゅうにひろまって、たぬきの長兵衛の評判、いよいよたかくなったところへ、持ちあがったのがあの一件で、いよいよ、人形佐七の捕物ばなしという段どりになるわけである。  旅人ふたりづれ   ——首なし死体はイビキをかかぬ 「ごめんくださいまし。なんだか妙なことが持ち上がったというじゃありませんか」  薬研堀《やげんぼり》に年の市の幟《はた》がはためいている朝のことだった。  町かどにある自身番へ、そう声をかけてはいってきたのは、おなじみの人形佐七、ひろい額が小気味よくさえて、にっこりとわらった口もとに、こぼれるようなあいきょうがある。  当時江戸の劇団で、古今のまれものとうたわれた坂東三津五郎いきうつしという評判も、うそや掛け値ではない。  もちろん、辰や豆六もいっしょである。 「おや、お玉が池の親分、辰つぁんも、豆さんもごいっしょで……さあさ、こちらへ。いま、お茶をいれましょう」 「いえ、もう、おかまいくださらんように。ときに、たぬきの長兵衛が殺されたというのをきいて、駆けつけてきたんですが、ほかを当たってみるよりも、おまえさんにきくがいちばんと、こうしてお伺いしたんです。いったい、どうしたというんですか」 「さあ、そのことですがねえ」  と、町役人はまゆをひそめて、 「長兵衛というのは酒こそのむが、まことにきっぷのよい男で、だれからもかわいがられていたのに、それがこんなことになったので、みんなおどろいているんです」  昨夜六つ半(七時)ごろのことである。  ちかごろ評判の娘紅葉が、使いにいって、かえってくると、長兵衛はふとんをかぶってねていた。  長兵衛はその日、ひるすぎから、一升どくりをかかえこんで、酒びたりになっていたから、さては酔いつぶれてねているのであろうと、紅葉はべつに怪しみもしなかった。  台所へはいって、さっさとご飯のしたくをすると、長兵衛のそばへにじりより、 「おじさん、起きてください。ご飯のしたくができました。おじさん、おじさん」  と、ふとんのうえからゆすぶったが、長兵衛はうんともすんとも答えない。  長兵衛はふだんから、いたってイビキの大きい男である。  それが酔うと、いよいよものすごくなるのに、妙にひっそりしているから、紅葉はなんとなくあやしんだ。 「おじさん、おじさん」  と、そっとふとんを持ちあげたが、ひとめそこをみると、きゃっとばかりにのけぞった。  それもそのはず、ふとんのなかの長兵衛には首がなかった。  もののみごとに切りおとされて、首だけゆくえ不明になっているのである。  なるほど、これではイビキのないのも道理で、首なし死体がイビキをかいては、それこそ、たぬきのお化け以上の怪談である。  それはさておき、紅葉の悲鳴をきいて、近所のものが駆けつけてきたから、そこで長屋じゅう大騒動になった。 「そこで、いろいろ調べたところによると、だいたいこういうことになるんです。それよりすこしまえに、紅葉は油を買いに出かけたが、そのときはもちろん長兵衛は元気で、ちびりちびりと飲んでいたそうです」 「なるほど、それで……?」 「ところが、紅葉が出かけたそのあとへ、旅にんらしい男がふたり、長兵衛宅へはいっていくのを見たものがあるんです」 「旅にんみたいな男がふたり……?」 「ええ、そうなんで。それからまたおなじふたりが、ひどくあわてて、路地ぐちを出ていくのを見たものもあります」 「なるほど、それで……?」 「ところが、そういえば、そのときひとりが、首のつつみらしいものを持っていたといいますから、てっきり下手人はそのふたり、ということになってるんだが、ここにひとつ、ふしぎなことがあるんです」 「ふしぎなことというのは?」 「長兵衛はむろん、殺されたんでしょう。ところがからだを調べてみると、首の切り口のほかには、どこにも傷がないんです」 「なるほど、それがなにか……?」 「いや、それにまた、ちょうどそのころ、壁ひとえとなりでは、大工の熊吉《くまきち》というのが、女房とさしむかいで飯を食っていたのに、へんな物音ひとつきかなかったというんです」 「なるほど、それで……?」 「長兵衛がいかに酔っぱらってたからって、そうむざむざ殺されるというのはおかしい。すこしは立ちまわりの音がきこえなければならぬはず、それがなんの物音もしなかったのはふしぎだと……」 「しかし、それゃア、くらい酔ってねているところを、のどをえぐられるか、頭にひと太刀《たち》くうかしたんじゃありませんか」 「へえ、まあ、そうとより考えようはありませんが、それにしても、キャッとか、スッとかいいそうなもの。それがなんにもきこえなかったというんだから、ちと妙です」 「なるほど。それは妙ですね。ときに、長兵衛というのはどういうんです。なにか旅にんに、かかわりあいのあるような男ですか」 「とんでもない。わたしもあいつのことを、それほど詳しく知っているわけじゃないが、長兵衛はもう何十年来この長屋に住んでいるが、三日と家をあけたことはありません。きっすいの江戸っ子で、いままで旅などしたことはねえと、ひとにいってたようだから、旅にんに関係があろうたア、どうしても思えないんです」 「それだのに、そのふたりというのは、たしかに旅にんなんですね」 「へえ、それはもう、まちがいのないところで。路地の入り口で長屋のものに、長兵衛の宅をきいているんだが、ことばにひどい上州なまりがあったというんです」  佐七はしばらく考えていたが、 「ときに、れいの小娘ですがねえ。紅葉とかいいましたが、その娘はどうしました」 「それがまた、おかしいんですよ」  町役人は顔をしかめて、 「親分も、あのうわさはご存じでしょう。本人はたぬきでとおしてるんだが、それはまゆつばもので、なにかいわくがあって、素姓をかくして、長兵衛のもとへ住みこんだにちがいねえが、それが一件のあと、姿をかくしてしまったんです」 「へえ? それじゃいなくなったんですか」 「そうなんで。これはわたしどもの手抜かりで、めんぼくないんですが、長兵衛のことに気をとられているうちに、いつのまにやら、姿をかくしてしまったんです」 「それは、それは……」  佐七はおもわず、辰や豆六と顔見あわせた。 「それで、あらためて、あいつが怪しいということになって、近所のものにきいてみると、すこしへんなところがあるんです」 「へんなところというと……」 「一件の起こったさい、紅葉は油を買いに出てたというんだが、それなら、とくりを持ってなきゃならぬはず。ところが、かえってくるところを見たものの話じゃ、なにも持たずに、手ぶらだったというんです」 「なるほど、それゃア……」 「それに、それよりまえに、紅葉が出ていくところを見たものの話じゃ、血相かえて、ひどく取り乱していたというから、ひょっとしたら、長兵衛を殺したなア、あの旅にんじゃなくて、紅葉じゃねえかと、いいだしたやつがあるんです」 「しかし、それにしてはへんですね。じぶんが殺したのなら、どうしてあとになって、引っ返してきたんでしょう。しかし、姿をかくすというのは、やっぱり、うしろ暗いところがあるんでしょうな。ひょっとすると、そいつがふたりの手引きをしたんじゃありますまいか」 「へえ、それも考えました。しかし、手引きをするならば、なにもきょうまで待つことはない。あの娘が住み込んでから、もうひと月以上もたつんですからね。それに、あの娘には、すこしもいなかなまりはなかったようです」  佐七は、そこで、また考えていたが、 「いや、それで、だいたいのことはわかりました。ここで思案をしていたところではじまらない。ときに、長兵衛の死体は……?」 「まだ、長屋においてあります。ごらんになりますか」 「へえ、ひとつ見せてもらいましょう」  生首の忘れ物   ——新吉原《しんよしわら》ではキャッキャッ騒動  路地の入り口には、いっぱいのひとだかりである。  それをかきわけて三人が、町役人に案内されていくと、長兵衛の家には、二、三人、近所のものがつめかけていたが、佐七の顔をみると、だまって頭をさげて出ていった。  長兵衛の死体は、北まくらにねかせてあり、まくらもとにはさかさびょうぶ、小机のうえに線香が細い煙をあげているのは、近所の連中のこころざしだろう。  佐七は掛けぶとんをめくってみたが、さすがに、これは……と、息をのまずにはいられなかった。  職業がら、佐七もいままでずいぶんいろんな死体をみてきたが、こんなむごたらしいやつにお目にかかったのははじめてだった。  人間の首なんてものは、ふだん、胴のうえにのっかってるぶんには、べつになんともないものだが、それが切りはなされて、なくなっているというのは、なんともいえぬほど、へんてこなものである。  だいいち、からだぜんたいのつりあいがとれない。  佐七も辰も豆六も、思わずしりごみしたが、ここでしりごみをしていては稼業にならない。佐七はとっくり死体をあらためたが、なるほど、どこにも傷はなかった。 「親分、それじゃやっぱり、頭のほうをやられたんですね」 「ふむ、そんなことかもしれねえ」  佐七はなおも死体の手足をあらためていたが、にわかにきらりと目を光らせると、辰と豆六をふりかえった。 「おい、辰、豆六」 「へえ……」 「ちょっと、その死体の右手をみろ」 「死体の右手……親分、べつに変わったこともねえようだが」 「指もちゃんと五本そろうて、つめもはえそろうてまんがな。親分、この手がどないかしましたんか」 「そうよ、指もちゃんと五本そろって、つめも長くのびている。どこにも変わったことはねえ。だから、おかしいのよ」 「へへえ、変わったことがねえから、おかしいんですって? 親分、それはいったいどういうわけです」 「それが、てめえたちにゃアわからねえのか。だから、てめえたちは……だが、まあ、いいや。いずれそのことはあとで話そう。いや、どうもありがとうございました」  ひととおり家のなかをしらべたのち、町役人にあいさつをして表へ出ると、佐七は辰と豆六をふりかえった。 「辰、豆六、御用だ。ひとつ働いてくれ」 「へえ、親分、なにか目星がつきましたか。いったい、どういう御用です」 「長兵衛にも、とくべつ懇意にしていたものがあるにちがいねえ。長屋の衆にきけばわかるだろう。おまえたち、それを突きとめたら、そいつらの家をさぐってくれ」 「親分、さぐるちゅうて、なにをさぐったらよろしおまんねん」 「つまりな、長兵衛の懇意にしてるもののうち、だれかをかくまっているようなけはいはねえか、そいつをたしかめてくれ」 「へえ……? しかし、親分、かくまうって、いったい、だれをかくまってるんです。紅葉ですかえ、ふたりの旅にんですかえ」 「なに、長兵衛よ」 「げっ」  辰と豆六は左右から、おもわず佐七の顔を見なおした。 「親分、じょ、じょ、冗談でしょう。だって、長兵衛はあのとおり……」 「殺されてるのが長兵衛だと、おまえたち、どうして知っている。つらを見なくてもわかるのか」 「親分、そ、そんなら殺されたんは、長兵衛やおまへんのんか」 「そうよ、長兵衛じゃねえ。おまえたち、死体の右手を見たろう」 「へえ、親分が見ろとおっしゃったから見ましたが、べつに、なにも変わったことは……」 「ないからいけねえ。まあ、つもってもみろ。長兵衛はかりにもたぬきを彫らせたら名人といわれるほどの目貫彫りよ。それだけの目貫彫りになるについちゃ、年季の入れかたもちがっているはず。右手にタコもできようじゃないか。それがねえというのがおかしい」  辰と豆六は、おもわず顔を見合わせる。 「それにな、目貫彫りのようなこまかい細工をする職人は、みんな深づめをつんでいるものなんだ。ところが、いまの死体は、ながくつめがのびていたじゃアねえか」 「なるほど、これは親分、かぶとをぬぎやした。しかし、あれが長兵衛でねえとすると……」 「わかった、わかった。そんなら長兵衛が下手人やな。人を殺しておいて、あべこべにじぶんが殺されたようにみせかけて、姿をかくしよったにちがいない」 「そうよ。だから、長兵衛のかくれていそうなところを調べてこいといってるんだ」 「おっとしょ。それと話がわかれば張り合いがある。豆六、いこうぜ」 「合点や」  とばかり、辰と豆六はいさみたって、そこで佐七とわかれたが、さて、その晩、お玉が池へかえってきたところをみると、ふたりはひどく妙な顔をしていた。 「親分、いけません。こんどこそ、おまえさんのお目ちがいでした」 「目ちがい? 辰、なんのことだ、それは?」 「なんちゅうてあの死体だんがな。親分、あら、やっぱり長兵衛やがな」 「長兵衛……? どうしてそれがわかった」 「どうしてって、親分、首が出たんです」 「なに、首が……? そ、そして、その首というのが、長兵衛にちがいねえのか」 「へえ、そうだんがな、親分、まあ、聞いておくれやす、こういうわけだす」  と、ふたりの話すところによるとこうである。  ゆうべ吉原《よしわら》の出雲屋《いずもや》という店へあがったふたりづれの客があった。  人相風体、旅にんらしい男だったが、兄貴分らしいそのひとりが、すいかのようにまるいふろしきづつみをもっていた。女がなんだときいても、男は笑ってこたえなかった。  旅にんらしいその男は、思ったよりも淡白だった。  女がそばへはいってくると、いきなり腕のしたへ抱きすくめ、しゃにむに、女のからだの奥ふかく侵入すると、あいてのおもわくなんかなんのその、じぶんさえよければそれでいいといわんばかりに、はじめから息をはずませ、勢《いきお》い猛《もう》にふるまいはじめた。  女もそんなことには慣れているから、したから男のふとい猪首《いくび》に両手をまわし、適当に調子をあわせてやりながら、息をあえがせてみると、あいてはたわいもなくその手にのって、まもなくすさまじいうめき声とともに、したたか竜吐水《りゅうどすい》の雨を降らせ、じぶんだけ思いをとげてしまうと、そのままぐったりのびてしまった。  やがてひと息いれると、むっくりとかま首をもちあげた男は、うえから女の顔をのぞきこみながら、ふたことみこと冗談をいっていたが、あしたの朝の早立ちのそのまえに、もういちど後朝《きぬぎぬ》の別れをおしむことを、女にハッキリ約束させると、それで満足したのか、そのまま女のからだをはなして寝てしまった。  こういう客ばかりだと、この稼業も楽なものである。  ところが、男がねてから、ご不浄へいこうとして女がなにげなく、あのふろしきづつみへ目をやると、じっとりと血がにじんでいる。  女はおおいに好奇心をもよおした。  さいわい客はよくねているので、こっそり、ふろしきづつみをひらいてみると……。 「それが生首だから、さあ、たいへん、女郎め、キャッとさけんで目をまわした。その声をききつけて、無理心中でもあったのじゃないかと、やりてのばばあが駆けつけてきたが、こいつがまた、キャッとさけんで目をまわす。その声をきいて、やってきたのが朋輩《ほうばい》女郎、これがまた、キャッとさけんで、目をまわす。その声をきいて駆けつけてきた男衆の留公《とめこう》が、これまたキャッとさけんで……」 「おいおい、辰、そのキャッキャッはもういいから、はやくさきを話せ。それで客はどうしたんだ」 「へえ、その客は、キャッキャッ騒ぎのあいだにふたりとも逃げてしまいよったんだす。そして、あとに残ったのがその生首や。出雲屋でもそんなもん、佃煮《つくだに》にして食うわけにもいきまへんさかいに、自身番へとどけて出よったんやが、そこへ、きこえてきたんが長兵衛殺しの一件や」 「そこで、もしやというので、長屋のもんを呼びだして、首実検をさせたところが……」 「たしかに長兵衛の首にちがいねえというんだな」 「へえ、そうなんで。だから、親分、長兵衛はもうどこにもかくまわれている気づかいはねえから、そのほうの探索は、よしにしてかえってきたんですがね」 「ふうむ」  これには佐七も、いっぱい食ったおももちで、腕をくんで考えこんでしまったのである。  お通夜の生首   ——生首になっても女に会いにいく執念  忘れものにことかいて、なにしろ、生首の忘れものだというのだから、このうわさは、その日のうちに、パッと江戸じゅうにひろまって大評判になったが、さらにその生首が、たぬきの長兵衛と判明すると、さあたいへん、あちらでもこちらでも、寄るとさわるとこのうわさである。 「それにしても、長兵衛もしゃれ者じゃねえか。首になっても、吉原へあそびにいきやアがった」 「それがよ。出雲屋にゃ長兵衛のふかいなじみの女がいるんだよ。それで長兵衛、首になっていとまごいに出かけたんだというぜ」 「そうそう、旅にんふうの男がな、生首をしょってると、その生首が、出雲屋へいこう、出雲屋へいこう、といったんだってさ」  なにしろ、怪談ずきの江戸っ子である。だれがいいだしたのか、愚にもつかぬそんな話が、まことしやかに伝えられて、おもしろはんぶんにワヤワヤガヤガヤ。  この一件で、いちばんもうけたのは出雲屋で、その当座、ものずきな嫖客《ひょうかく》がおしよせるので、大繁盛だったというが、それはさておき、こちらは薬研堀《やげんぼり》のうらだな、長兵衛の長屋である。  さいわい、検視がおわったあと、首は長屋のものにさげわたされ、ぶじに胴のもとへまいもどったので、こんやは長屋一統あつまってのお通夜《つや》である。  なにせ事件が事件だから、はじめのうちは話題もおおく、長屋一統、長兵衛の思い出話を酒のさかなに、のんきにむだぐちをたたいていたが、さすがに夜がふけるにしたがって、えりもとから薄気味悪さがしみこんでくる。  だいいち、首と胴とがつながっていない死体なんてものは、あんまり気持ちのよろしいものじゃない。  みんな、なるべく死体のほうを見ないようにつとめながら、 「それにしても、おかしいじゃねえか。この首をみても、切り口のほかにどこにも傷はねえぜ。いかに、酒にくらい酔ってたからって、まさかすっぱり首を切りおとされるまで気がつかねえという法はあるめえ。長兵衛め、いったい、どうして殺されやアがったんだろう」 「しめ殺されたんじゃねえかえ。くらい酔ってねてるところを、手ぬぐいかなんかで、ぐっとひとしめ……」 「しめ殺したって、おまえ、どこかに跡がのこるはずよ。あざやなんかがな。ところが、この死体ときたら、どこにもそんなあとがねえんだからふしぎだよ。寝首をかかれるということばはあるが、こんなにきれいさっぱりと首をおとされたやつア、神武以来はじめてだろうぜ。さすがたぬきだけあって、殺されかたもかわってやアがる」 「おいおい、あんまり悪口をいってると、化けてでるぜ。なんしろ、首になってもなじみの女のところへあいに出かけるという執念ぶかさだ。おらアなんだか、寒くなってきた」 「うっぷ、バカだなア、おまえは。あんな話をまにうけてるのか。長兵衛にそんな女があってたまるもんか。あいつのいろは一升どくりよ」 「しかし、長兵衛だって男だ、たまにゃ女を抱きにいくこともあったろうじゃねえか」 「それゃア、ま、そんなこともなきにしもあらずだが、それだって吉原へなどいくもんか。夜鷹《よたか》か舟まんじゅうで、まにあわせてらア」 「そうそう、その舟まんじゅうで思いだしたが、おら、このあいだ、おもしろい女を買ったぜ」  と、どうせ男ばかりあつまれば、すえは猥談《わいだん》にきまっている。  ひとりがおのろけを切りだせば、ほかの連中もだまってはいない。  われもわれもと愚にもつかぬ女郎買いならまだよいが、夜鷹やけころや舟まんじゅうと下等な女とたわむれたいきさつを、自慢たらたら一席ぶってまわったが、そのうちに夜がふけたので、だれかが大あくびをすると、 「おい、どうだ、ここらでそろそろ、おひらきにしようじゃねえか」 「あっはっは、おいろけの話が出たので、里心を出しゃァがったな。うちじゃアかかあが待っているか」 「そのとおり、そのとおり、おら、なんといわれてもかまわねえ。早くかえってぐっすりねてえ」 「よし、それじゃこれでおひらきとしよ。長兵衛だって、これだけつとめればいうことはあるめえ。これ、長兵衛、迷わず成仏してくれろ。化けてでるなら、となりの熊公《くまこう》のところへ化けてでろ」 「冗談いうな、そうでなくても、おれんちは壁ひとえだ。こんやは気味がわるくて、おちおち寝られやアしねえ」  わいわいいいながら、長屋一統がひきあげたあとには、首と胴をとつぎあわされた長兵衛ひとり、男やもめのことだから、あとにはだれものこらなかった。  いままでにぎやかだっただけに、そのあとの寂しさ、陰気さは、いっそう身にしみるようである。  長屋のものがあかりを消していったが、どうせすきまだらけのガタピシ造作、板びさしをもれる月影に、家のなかはほんのり明るい。——と、一同がひきあげてから、まもなくのことである。  継ぎはぎだらけの、押し入れのふすまが音もなくスーッとひらいたかと思うと、ねこのように、はいだしてきたものがある。  ほのくらがりでよくは見えないが、なりかたち、どうやら紅葉らしいのである。  さすがに紅葉もおそろしそうに、しばらくはうすくらがりのなかで身をすくめていたが、やがて心をきめたものか、行灯《あんどん》に灯《ひ》をいれると、長兵衛のまくらもとににじりより、そっと死体をのぞきこんだ。  そして、しげしげその顔を見つめていたが、なにを思ったのか、はっと息をうちへ吸い、 「ちがうわ。これはやっぱり長兵衛のおじさんじゃないわ。とてもよく似ているけれど、これはおじさんじゃなかったんだわ」  と、たゆとうようにつぶやくと、両のたもとで胸をおさえ、ぼうぜんとして、死人の顔をみつめている。  と、このとき、表のほうからきこえてきたのは、ガタリと、どぶ板をふみならす音。  紅葉はギョッとして、そのほうへふりかえると、しばらく、きき耳を立てていたが、やがて、あわてて行灯の灯をふきけすと、ふたたび押し入れのなかにもぐりこんだ。  紅葉の悲願   ——どろぼう、どろぼう、首どろぼうでございます  すると、それからまもなくのことである。  表の格子《こうし》がそろそろひらいて、忍びこんだのはふたりづれ、ほおかむりをしているから、よくわからないが、どうやら、れいの旅にんらしい。 「それ、みろ、だれもいねえじゃねえか」 「おかしいな、たしかにさっき、行灯《あんどん》の灯《ひ》がもれていたように思うんだが……」 「くだらねえことをいうない。長兵衛はひとりもんだ。お通夜《つや》の連中がひきあげたら、あとにだれものこるもんか。げんにこのとおり、行灯はちゃんと消えてるじゃないか」 「だって、たしかに……」 「まだいいやがる。てめえもよっぽど強情だぜ。いいってことよ。長屋の連中が目をさますといけねえから、早くしろ」 「おっと、合点だ」  薄暗がりでひそひそと、そんなことをささやきながら、さぐりよったのは死体のまくらもと、ひとりがその首に手をかけた。 「兄い、いいか」 「だいじょうぶだ。こんどこそ手ばなしゃアしねえぞ」 「ほんに、ゆうべは大しくじりよ。生首の落としものとは、吉原はじまっていらいのことだろうよ。あっはっは」 「これ、笑いごとじゃねえ。ぐずぐずしていて、ひとにみつかるとめんどうだ。早くいこう」 「おっとしょ」  と、ふろしきのなかに長兵衛の首をくるむと、これを背中にたすきがけ、いこうとするそのうしろから、だしぬけに、 「どろぼう! どろぼう! 首どろぼうでございます。みなさん、起きてください」  と、押し入れのなかから金切り声をはりあげたのは紅葉である。首どろぼうのふたりは、まるで足下から鳥でも立ったように、あわをくって格子のそとへとびだしたが、その鼻先に、ヌーッと突きつけられたのが御用ぢょうちん。 「わっ、兄い、これゃアいけねえ」  ふたたび家のなかへとってかえし、そこらじゅうのものを、けとばし、けちらし、裏口からそとへとびだすと、そこにも御用ぢょうちんである。 「ちぇッ、こら、どうじゃ」  首どろぼうのふたりは、進退ここにきわまったが、そのあいだも、紅葉のさけぶ声はたえない。 「どろぼう! どろぼう! 首どろぼうでございますよ。みなさん、起きてください」  その声に、長屋の連中が目をさまして、てんでにむこうはちまきで、棒だの薪《まき》ざっぽう、なかにはあわてて、ほうきだの、ちりたたきだのを持ってとびだしたやつもある。 「どこだ、どこだ、首どろぼうはどこだ」 「ここでございます。このふたりづれでございます」 「ふてえ野郎だ、神妙にしろ」  なんのことはない、大そうじにねずみを追いかけるようなさわぎだったが、やがてとうとう、首どろぼうのふたりはとりおさえられた。 「いや、みなさん、ご苦労でした。こんなこともあろうかと張りこんでいたんですが、まんまと網にかかりゃアがった」  やっと騒ぎがおさまったころ、表からはいってきたのは、いわずとしれた人形佐七だ。  裏口からは、辰と豆六もやってくる。  佐七はふたりをひきすえて、 「これ、神妙にしろ。長兵衛を殺したのは、おまえたちふたりか」  佐七のことばに、兄貴分とおぼしいやつがくちびるをとんがらせて、 「冗談いっちゃいけねえ。長兵衛なんて男はおらしらねえ。ここに死んでる男なら、これゃア海坊主の次郎吉という男ですよ」 「なに、その死体は長兵衛ではない?」  佐七はちょっと辰や豆六の顔をみると、 「そして、海坊主の次郎吉という男だというんだな。いったい、その次郎吉というのはどういう男だ」 「なに、こちとらとおなじ渡世の、ばくちうちでさあ」 「そして、その次郎吉の首を、なんだっておまえたちはねらっているんだ」  とらえられたふたりは、額をつきあわせて、しばらくヒソヒソ相談していたが、やがて、ひとりがひざをのりだすと、 「親分、こちとらはどうせ旅のもんで、おまえさんがどういうおひとかしらねえが、男と見込んでたのみがある。なあに、こちとらはどうなってもかまいませんが、親分のことだけはきかねえでくださいまし。そうすれば、なにもかも申し上げてしまいます」  思いこんだふたりの顔色である。  佐七はにっこりうなずくと、 「なるほど、親分の名にかかわっちゃならぬというんだな。よしよし、それじゃ親分のことはきかねえから、こんどの一件について、のこらず話してもらおうじゃねえか」 「へえ」  と、そこでふたりが語るところによるとこうである。  かれらは定五郎、安吉というばくちうちで、上州のさる親分の身内のものだが、ことしの秋、その親分のところへわらじをぬいだ旅にんがある。  それが、海坊主の次郎吉だった。 「ところで、こいつふてえやろうで、いつのまにやら、親分の目をぬすんで、おもい者のお亀《かめ》という女とねんごろになり、手に手をとって、駆け落ちしやアがったんです。そこで、親分がかんかんにおこって、ふたりを首にしてこいと……」  そこで、定五郎、安吉のふたりは、お亀、次郎吉のあとを追うたのである。  ところが、途中ききこんだところによると、お亀という女は、旅の宿で死んだという。  こうなると、のこるのは次郎吉ひとりだが、その次郎吉が、親分のうちにいるころもらしたところによると、江戸の薬研堀《やげんぼり》に目貫彫《めぬきぼ》りで、長兵衛という兄弟があるという。そこできのう、長兵衛のすまいをさがしだし、 「やってきて、ばっさり殺したのか」 「いえ、ところが、それがおかしいんで……きてみると次郎吉め、すでに往生していたんです」 「なに、死んでいた? おい、おまえたちも男らしくねえ。この期におよんで、そんな逃げ口上はひきょうじゃねえか」 「いえ、まったくの話なんで。やったのならやったと正直に申し上げます。あっしらだって、死に首をかいていったんじゃ、自慢にゃアなりませんからね。ところが、あっしたちがきたときにゃ、たしかに冷たくなってのびていたんです」  と、やっきとなっていい張るふたりのうしろから、 「はい、そのとおりでございます。そのおじさんは、おふたりがくるよりまえに、死んだのでございます」  そういう声は紅葉であった。  紅葉の悲願成就   ——たぬきに化かされたような事件で  佐七はびっくりして振りかえると、 「おお、おまえは紅葉だな。おまえにもいろいろ聞かなきゃアならねえことがあるが、それじゃ、おまえはこの男が死ぬところをみていたのか」 「はい」  紅葉はしょんぼり首をうなだれている。 「これ、ねえや、それゃアいったい、どういうわけだえ。さあ、もうこうなったら、なにもこわがることはねえ。おまえの知ってることを、のこらずここで申し上げろ」 「はい」  と、涙ぐんだ目をあげて、紅葉が語るところによると、こうである。  きのうの昼過ぎ、紅葉は用事があって、浅草まで出向いていった。  そして、日暮れごろにかえってみると、長兵衛はしたたかに酔うている。  しかし、そんなことは珍しくもないことなので、紅葉はべつに気にもとめず、台所をしていたが、すると、長兵衛が、こっちへきて腰をもめという。  紅葉はいわれるとおりに腰をもんでいたが、そのうちに、長兵衛がいきなり紅葉の手をとって、ズルズルと引きよせようとする。  びっくりした紅葉が、あいての顔をみなおすと、長兵衛は血走った目をあやしく光らせ、息をはずませているのである。  紅葉はびっくりぎょうてんした。 「いままで、どんなにお酒に酔うても、そんないやらしいことをするおじさんじゃなかったのに、ひとがかわったようなふるまいです。あたしはむちゅうで突きとばしました。すると、そのひと、うしろへひっくり返ったかとおもうと、そのままうんとうなって……」  息がたえてしまったのである。  さしずめ、いまのことばでいえば、心臓マヒとかなんとかいうところで、現今の医学ならば、検死のさい、すぐにわかるはずであったが、当時はそれがわからなかったのである。  それはさておき、おどろいたのは紅葉である。  あいてが死んでいるのに気がつくと、てっきりじぶんが人殺しをしたとばかり信じて、恐ろしくなって、とびだしたのである。  そして、むちゅうで町を歩きまわっているうちに、だんだん気がおちついてくるにつれて、どうしてもふにおちないのは、さっきの長兵衛のふるまいである。  いままで、長兵衛を信用していただけに、紅葉はがてんがいかなかった。  あれははたして、長兵衛だったろうか。そういえば、なるほど、顔は似ていたが、どこかちがったところがあったように思われる……。  そこで、紅葉はもういちどひきかえして、たしかめようとしたのだが、そのときには、死人の首はすでになかった。  それからあとはいうまでもなく、あのとおりの騒ぎになって、紅葉はいったんすがたをかくしたが、うわさによると長兵衛の首が、きょうぶじに長屋へかえってきたという。  そこで、またあらためてこっそりと、首実検にやってきたというのである。  佐七はそれを聞くと、目をまるくして、 「ほほう。すると、その死体は、やっぱり長兵衛ではなく、しかも、こいつ、殺されたのじゃなかったのか」  長屋の連中も話をきいて、目をまるくしておどろいている。  それもむりではない。大山鳴動してねずみ一匹、まるで、たぬきに化かされたような話である。 「それにしても、この騒ぎをよそに、かんじんの長兵衛はどうしやアがったんだろう」  佐七のことばもおわらぬうちに、 「へえ、その長兵衛ならここにおります」  と、表からきこえる声に、二度びっくり、一同がふりかえってみると、長兵衛は旅ごしらえもげんじゅうに、面目なげな顔をして立っていた。 「あら、おじさん」 「ああ、紅葉か。おまえにもえらい心配をかけたな。みなさん、お騒がせして申しわけございません。これというのも、兄貴の心がけがわるいばっかりに……親分、きいてください。こういうわけでございます」  と、そこで長兵衛が打ち明けたところによるとこうである。  おととい、紅葉が浅草へ使いにいったそのあとへ、ひょっこりやってきたのが次郎吉である。  次郎吉は、ひとに追われているから、しばらくかくまってくれ、という。 「そこで、わたしが一計を案じましたので……というのは、この次郎吉とわたしとは、ふたごのようによく似ております。で、なまじ逃げかくれするよりも、この長兵衛になりすまして、しばらくようすをみていたら……と、こう申したのでございます。まさか、わたしはこの兄が、ここの家のことをあいてにしゃべっているとは知りませんでしたので。兄貴もそのことを忘れていたとみえて、それがよかろうということになり、そこで、ふたりはきものをとりかえ、わたしは兄の衣装をかりて、鎌倉から、江の島見物をしてくるつもりで、でかけたところ、神奈川の宿で、こんどのうわさをききましたので、あわててかえってきたのでございます」  これでなにもかもわかった。  次郎吉は、弟長兵衛になりすましていたが、持ってうまれた女好きの性癖があたまをもたげ、紅葉にいどみかかったところで、心臓にカタストロフィーがきたというわけである。  こうして話がわかってみると、定五郎、安吉のふたりが、死体の首を切りおとしたという以外には、なんの犯罪もないことになった。  それこそ、まるで、たぬきに化かされたような事件だが、ただ、ここに、わからないのは紅葉の素姓である。  だが、こうなっては、彼女ももうこれ以上かくすわけにはいかなかった。  左右から問いつめられて、紅葉が涙ながらに語るところによるとこうである。  彼女の父は、西国の某大名の家中のものだが、この春、主君の命によって、長兵衛のもとへ目貫の注文にやってきた。 「そのとき、父の申しようがわるかったとやらで、長兵衛さまはたいそうなお怒りでございましたとか。そのために、父は主命にそうことができず、閉門ということになりました。それが悲しゅうございますので、父になりかわり、なんとかして長兵衛さまに目貫を彫っていただこうと、たぬきになっておそばづかえ。ごきげんのよいおりをみはからって、お願いするつもりでございました。もし長兵衛さま、お願いでございます。この紅葉をふびんとおぼしめして、どうぞ、目貫を彫ってくださいまし」  紅葉が、もみじのような手をつかえて、涙ながらに頼んだから、長兵衛め、わっとばかりに手ばなしで、泣きだしたものである。  この物語も、ここまでくるとおしまいである。  その後、長兵衛のいっしんこめたたぬきの目貫のおかげで、紅葉の父は、閉門をゆるされたばかりが、ご主君よりたいそうおほめのことばをいただいたということである。  定五郎、安吉のふたりは、せっかくここまで次郎吉を追いこんできたものの、首はおだやかでないから、もとどりでがまんしろとあって、次郎吉の髪をきって、国へ持ちかえったという。  たぬきの長兵衛、読み切りの一席。へい、ごたいくつさま。     敵討《かたきう》ち人形|噺《ばなし》  師走《しわす》雪の岩藤《いわふじ》   ——夢か、幻か、通り魔のように 「べらぼうめ、てめえなんかに、江戸|浄瑠璃《じょうるり》のありがたさがわかってたまるもんけえ。耳をかっぽじってよくきけよ。いまお江戸で全盛はな、清元延寿|太夫《だゆう》、このひとは常磐津《ときわず》からわかれて、べつに一派をたてたぐれえだから、古今無類の名人だあな。この清元のむこうをはるのが常磐津の豊後掾《ぶんごのじょう》こいつはもと豊後節といっていたんだが、その節まわしのあわれさにつまされて、江戸じゅうに心中がおおはやり、そこでいちじ、おかみからお差し止めになったというぐれえたいしたものだ。清元にしろ、常磐津にしろ、でえいち、太夫の行儀からしてちがわあな。山台のうえに、ひざもくずさず、きちんとすわってよ、それでいて、声といい節まわしといい、きくものの五臓六|腑《ぷ》に、しみわたろうというありがたさ、それにひきかえ、あの義太夫《ぎだゆう》というやつはどうだえ。おらあ、あんな行儀のわるい芸はでえきれえよ。語りながら鼻をかむわ、啖《たん》ははくわ。おまけに見台のうえにのびあがってよ。まえできいているものこそ災難よ。頭からつばだらけ、いや、芸人の風上にもおけねえというのはあのことさ」  と、たいそうもなく気炎をあげているのは、おなじみの人形佐七の一の子分、きんちゃくの辰五郎である。  小網町から鎧《よろい》の渡しへさしかかる川っぷち。  夜もすでに五つ(八時)をすぎて、まっくらな川面《かわも》をわたる師走《しわす》の風が、ゾッとばかりに身にしみるが、そんなことにはおかまいなし、酒もいくらかはいっているのだろう、口角あわをとばすけんまくなのだ。 「なにいうてなはんね。そこが義太夫のええとこやおまへんか」  と、これまた辰五郎にまけずおとらず熱をあげているのは、いうまでもない。辰五郎の弟分で、大阪者のうらなりの豆六だ。 「まあ、ようききなはれや。義太夫の太夫さんちゅうもんは、下っ腹にぐるぐるさらしを巻いてはるのが、いちだん語るとそのさらしがぐっしょりぬれるというくらい、力のはいる芸や、あほらしい、清元や常磐津といっしょにされてはたまりますかいな。わてら、あんなん、たよりのうてきいてられへん。頭のてっぺんから、蚊のなくような裏声だして、あんなもん、女こどもでもまねができまんがな。そこへいくと、義太夫ばかりは、どうしても男やないとあきまへんな。下っ腹にぐんと力をいれて、だいいち、あの三味線からしてちがいまんがな。こう、腹の底へしみわたって、つまりなんやな。義太夫ちゅうもんは、万事、腹の底からしぼりだす芸やな。常磐津や清元みたいに、頭のてっぺんからだすのとわけがちがいまっせ」 「なにをいやがる。こけが厠《かわや》でいきみやしめえし、腹の底とはよくいった。なるほど、みていてうんこでもたれやしめえかとハラハラすらあ。こう、よくききねえ、贅六《ぜえろく》は、意地がきたねえから、あんなのが気に入るのかしらねえが、江戸っ子はな、万事すっきりと、いきなところをたっとぶんだ。義太夫みてえにこれでもか、これでもかと、あくどくおっかぶせてくるなあ、性にあわねえんだよ」 「あほらしい。そこがよろしいのやがな。大序から切りまで武士でござれ、町人でござれ、男でござれ、女でござれ、語りわけるのが義太夫や、そんな浄瑠璃がほかにおますかいな。それにまた、あのあやつりちゅうもんがよろしいな。人形でいて人形ならず、真にせまって役者以上や。あのお染めのきれいさ、お光《みつ》のかわいらしさ、それからまた、鏡山の岩藤《いわふじ》のにくらしさはどうや。役者でもあんな岩藤はおまへんやろ」 「なにをいやアがる。そんなことをいやアもの笑いだぜ。へん、くだらねえ上方役者ばかり見つけていやアがるから、そんなばかなことをいうんだ。お江戸にゃアな、松助《おとわや》、半四郎《やまとや》と岩藤役者がそろっているんだ。人形なんぞといっしょにされてたまるもんけえ」  と、まけずおとらず口角あわをとばして、これでは論のはてっこはなかったが、そもそもどうしてこんなことになったかといえばこうなのだ。  きょうは師走《しわす》の十五日。  辰五郎と豆六のふたりは、八丁堀のだんなのところへ歳暮のあいさつにうかがったが、そのかえるさいに通りかかったのが、堺町《さかいまち》の豊竹《とよたけ》肥前のあやつりしばいのまえだ。  おりから出しものは『鏡山』と『野崎村』だったが、根が上方うまれの豆六は、義太夫とくると目、いや、耳のないほうである。  さいわい御用もひまなところから、さんざ辰五郎をかきくどいて、そのあやつりをのぞいてきたのだが、さてそこを出ていっぱいやっているうちに、そろそろ豆六がお国自慢をならべはじめた。  いや、道頓堀《どうとんぼり》の竹本座がどうの、豊竹座《とよたけざ》がどうのと、なまっかじりの義太夫礼賛。  江戸の浄瑠璃をあるかないかのようにこきおろすから、おさまらなくなったのはきんちゃくの辰だ。  さてこそ、浄瑠璃論からさては人形と役者の比較論にまでおよんだわけだが、いくらいっても議論はつきぬ。  そのうちに辰五郎は寒そうに、やけにくさめをすると、 「豆六、もうよそうぜ。いつまでいってもきりはねえやな。お国自慢はおたがいのこと、それよりおらあ腹がへったぜ」  と、江戸っ子だけにさばさばと話題をかえれば、食い意地にかけては豆六は人後におちぬ。 「そやそや。わてもそういお、おもてたとこや。それに、まあ、この川風、寒うてどもならん。なんぞ暖かいもんかきこみたいもんやなあ」  と、たちまち賛成して、あたりを見まわしたが、 「しめた。兄い、むこうにみえるのん、あら、夜鷹《よたか》そばのあかりやないか」 「どれどれ、おお、なるほど、それじゃひとつ、熱いところをたぐっていこうぜ」  と、いそぎあしにやってきたのは、鎧《よろい》のわたしのすこしてまえだ。  そのへん、かたがわには安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》さまのお屋敷のへいがながくつづいて、その通用門のあたりに、荷をおろしたそば屋のじいさんが、水ばなをすすりながらうちわをバタバタ、バタつかせていた。 「とっつぁん、よく冷えるじゃねえか。ひとつうんと熱くしてくんねえ」 「はい、はい、承知いたしました」  と、じいさんがとくべつに熱くしたのを、土手の枯れ柳のしたにしゃがんで、きんちゃくの辰とうらなりの豆六のふたりは、フーフーいいながらすすっている。 「やあ、なんや寒いさむいとおもてたら、こら、雪がチラチラしてきたやないか」 「あれ、まったくだ、ぶるぶるぶる、とっつぁん、今夜はこれゃつもるぞ」 「さようでございますねえ」  と、おやじがうちわをつかいながら、空を振りあおいだときである。  ギイ、ギイと艪臍《ろべそ》のきしる音が、鎧のわたしのほうからちかづいてきた。  あたりはうるしのやみにぬりつぶされて、ただひととこ、そば屋のあんどんの灯《ひ》がぬれたようにやみににじんでいるばかり。  その灯《ひ》のいろをおとした水のうえに、雪がしきりにおちては溶ける。  辰五郎と豆六は、どんぶりを両手でかかえたまま、なにげなくその水のうえをながめていたが、そこへだしぬけにひょいと、舟のみよしがあらわれた。  ギイ、ギイと、さびしい音をたてながら、舟はひとはばの光をスイと横ぎって、またたくまにやみのなかへすいこまれていったが、そのとたん、辰と豆六、あっと叫んでとびあがったのである。 「あ、兄い!」 「豆六、てめえもいまのを見たか」  と、顔見合わせたふたりが、ゾーッとしたように、首筋をなでたのもむりはない。  ああ、夢か幻か。  いまふたりの目のしたを、通り魔のようにスーッといきすぎたのは、たしかにさっき、豊竹肥前のあやつりしばいでみたあの人形の岩藤ではないか。  いったい、あやつり人形というやつは、たいていすごみのあるものだが、わけてもかたき役のお局岩藤《つぼねいわふじ》。  さきほど執念ぶかい死にざまを、まざまざと人形の手摺《てず》りで見てきただけに、その岩藤の異様にグロテスクな顔が、フーッといっしゅんちらつく雪のなかにうかびあがったときには、辰も豆六も、ゾッと総毛《そうけ》だつほど気味悪かった。  今様鏡山騒動   ——投げたぞうりは自害せよとのなぞか  ゆうべから降りだした雪は、けさになってもやむけはいがなく、江戸いちえんは銀世界。  おなじみの人形佐七は、はやく御用おさめにして、けさはいつにない朝寝。  四つ(十時)過ぎにやっと寝床を出ると、降る雪をさかなに、湯豆腐かなにかでちょっといっぱい、久しぶりにお粂をあいてにのんびりとしたかったが、どっこいそうはいかぬ。  あとから起きてきた辰や豆六から、ゆうべの怪異をきかされて、佐七はたちまち腕組みした。 「ふふん。そいつはみょうな話だなあ。浄瑠璃のほうなら寒げいこということがあろうが、人形がまさかの、で、なにかえ、舟のなかにゃ人形のほかに、ひとはいなかったのかえ」  きかれて辰は小鬢《こびん》をかきながら、 「さあ、それが……めんぼくねえ話ですが、なにしろほんのとっさの場合、それに人形に気をとられてしまったので、よく見るひまもなかったようなわけで。なあ、豆六」 「さいだす、さいだす。兄いにいわれるまでは、わてらじぶんの目が信用でけなんだくらいだす」 「ふん、それも仕方がねえが、しかし、てめえたちも抜かったな。そのとき、なぜすぐにあやつりしばいへひきかえして、岩藤の人形を調べてこなかったのだえ」 「すると、親分、こいつ、なにかネタにでもなるとお思いですかえ」 「そうよ、おれゃアどうも、ただのいたずらじゃねえような気がするんだ。辰、ひょっとすると、これア御用おさめにならねえかもしれねえぜ」  と、佐七は妙にかんがえこんだが、はたせるかな、それからまもなく、血相かえてとびこんできたわかい娘の口から、おなじく岩藤人形の怪異のいくたてを聞いて、佐七をはじめふたりの子分は、おもわずあっと顔を見合わせたことである。 「小田原町の加賀屋ともうす質屋の召し使い、初と申すものでございます。親分さんにおりいって、お願いがあってまいりました」  と、そういうことばのうちには、どこかなまりのぬけきらぬところがあったが、みたところ十八、九、勝ち気らしいうちにも、かわいげのある娘である。  雪もいとわずにやってきたその意気込みに、ただごとでないところが感じられたから、佐七はすぐに居間へ通しておいて、 「佐七はあっしだが、ご用というのはえ」  と、たずねてみると、お初は畳に手をつかえ、 「親分さん、おねがいでございます。ご新造さんを助けてくださいまし。このまま捨てておいたら、きっとご新造さんは死んでおしまいなされます。いいえ、殺されてしまいます」  と、のっけからおだやかならぬ話に、佐七はふっとまゆをひそめ、 「まあ、そうたかぶらずに、おちついて話してみなせえ。ご新造さんというのは、いってえだれだえ」  と、おだやかに尋ねてみると、女もやっとおちつき、 「これはとんだ失礼をいたしました。それではどうぞひととおり、おききくださいまし」  と、そこでお初が切りだしたのは、つぎのような奇々怪々の物語なのだ。  小田原町に加賀屋という有名な質屋がある。  主人は徳兵衛《とくべえ》といってことしまだ二十五、その徳兵衛のもとへ、ことしの春、嫁にきたのが、お初の主人でお国というご新造。  お国は桐生《きりゅう》の織りもとの娘で、持参金もたくさんあり、くにから女中のお初までつれてきていた。いわば、お初はお国にとっては譜代の家来というわけだが、そのお国とお初が、きのう、堺町の豊竹肥前のあやつりしばいを見にいったのである。 「へへえ、あの、あやつりを?」  と、きいてびっくり、ひざをのりだす辰五郎と豆六を、佐七はしっと目でしかりながら、 「おお、なるほど。それがどうかしましたか」 「はい、あやつりでは、鏡山の狂言をしておりましたが、それを見物してかえりのこと」  とちゅうでご飯をすませた主従が、小網町から舟をしたてたのは夜も五つ(八時)すぎのこと、船頭は猪之松《いのまつ》といって、加賀屋へでいりの男である。  ところが、舟が鎧のわたしへさしかかったときだ。  むこうからやってきた舟を、すれちがいざまにひょいとながめて、いや、おどろいたのおどろかぬの、おりから降りだした雪のなかに、もうろうと立っているのは、たったいま見てきたあやつりの岩藤。  なにがさて、わかい女どうしだ。  これを見ると、あれえっと叫んで抱きあったが、そのとたん、岩藤の人形が手をあげて、さっとこっちへ投げつけたのが…… 「はい、このぞうりでございます」  と、お初がふろしき包みをといて取りだしたのは、女ばきの福ぞうり、むろん片ほうだけである。 「このぞうりが、ご新造さんの額にあたったからたまりません。そうでなくても、日ごろから岩藤がなによりこわいご新造さんゆえ、そのまま気が遠くおなりあそばしたが、それが原因で、けさは朝から気も狂乱、岩藤がきた、岩藤がきた……と、それはそれはおびえきって……」  と、お初は主人思いらしく、おもわず涙さしぐんだが、これをきいておどろいたのは三人だ。  時刻もちょうど五つ過ぎ、ところもおなじ鎧のわたし。してみると、ゆうべ辰五郎や豆六が見たのは、やはり夢でも幻でもなかったわけだ。 「お話しちゅうだが、ちょっと待ってください。いまおまえさんは、小田原町だといいなすったね。小田原町と堺町じゃつい目と鼻のあいだ。なにも舟を仕立てるまでもないじゃありませんか。よし仕立てたぶんにも、小網町から鎧のわたしじゃ方角がまったくあべこべだ」 「はい」 「それにまた、おまえさんはいま、日ごろから岩藤がなによりこわいご新造さん、といいなすったが、それはどういうわけですえ。これさ、いまさらかくしごとをされちゃ、こちらも手の出しようがねえ。つつまずいってもらわにゃ困りますぜ」 「恐れ入りました。主家の恥になることゆえ、わたくしの口からは申しにくうございますが……」  と、そこでお初がうちあけた加賀屋の内情というのはこうである。  加賀屋には、しゅうともなければしゅうとめもなく、主人の徳兵衛はまた、いたって気のよわいおぼっちゃんゆえ、その点、嫁のお国も気がらくだったが、ただひとつ困ったことに、ここにお藤《ふじ》といって出もどりの姉がある。  としは徳兵衛とひとまわりちがいの三十九。  たとえにもいうとおり、小姑《こじゅうと》は鬼千匹とやら、しかもお藤は出もどりの大年増《おおどしま》、おまけに弟の徳兵衛とはうってかわったしっかりものだというから、嫁の苦労は察するにあまりある。 「わたくしの口から、このようなことを申すのはなんでございますが、ご近所でも店のものでも、たれひとりお藤さまをおかみさんと呼ぶものはございません。あれは加賀屋のお藤ではなく、鏡山の岩藤じゃ、岩藤じゃ……と。そこへもってきて、因果なことに、わたくしの名がお初でございますから、さしずめご新造のお国さまが中老|尾上《おのえ》の役まわり、ふびんなことや、いまにあの尾上も、岩藤にいびり殺されるにちがいないと、近所でも評判でございます」  ときいて、佐七とふたりの子分は、おもわず顔を見合わせた。  なるほど、屋号が加賀屋で名がお藤、三十九のでもどりとあっては、きっと岩藤みたいに執念ぶかく、意地わるい女なのだろう。  そこへもってきて、ご新造つきの女中がお初とあっては、だれしも鏡山を連想するのはむりではなかった。  ここでことあたらしゅう鏡山の講釈でもないが、『鏡山旧錦絵《かがみやまこきょうのにしきえ》』——この狂言がはじめて江戸の板にかかったのは、天明三年森田座の舞台で作者は容楊黛《ようようたい》。  これよりさき、享保年間、松平|周防守《すおうのかみ》の奥御殿でおこった事件を、おもしろおかしく脚色したものだが、なにがさて、主要人物というのが女ばかりだから、これがおなごどもの人気に投じて、腰元の宿さがりをする三月には、毎年この狂言が出るというくらい愛好されたもの。意地のわるい老女、岩藤のぞうりうちのはずかしめ、これに憤死するわかくうつくしい中老尾上、その尾上のおはしたで、岩藤を討つけなげなお初。  なにしろしばい狂言とは切ってもきれぬふかい縁をもっていた江戸の民衆だから、この岩藤の世界を、ただちに加賀屋の内情にあてはめて、あてこするのもむりはなかった。 「なるほど、それで、ご新造が岩藤をお恐れなさるんですね」 「さようでございます。わたくしの見るところでは、お藤さまとてそう悪いおかたではございませぬが、なにがさて、ご縁家さきのご運のうすかったおかたとて、だんなとご新造さんの仲がよいのがお気にめしませぬか、だんなのおからだにわるいとかで、ご新造さんは秋のはじめから、深川|六間堀《ろっけんぼり》の別宅でひとりずまい、ほんとうにおきのどくでございます」 「おお、なるほど、それじゃ、いま、小田原町にはいなさらねえのか」 「はい、さようでございます。それがきのう、ご本宅のほうへ年の暮れのごあいさつにおうかがいしましたところが、お藤さまがいつになくごきげんよく、堺町のあやつりにおもしろい狂言がかかっているから、ぜひ見にいくようにとのおおせ、ご新造さんがかえりがおそくなるからとご辞退なさいますと、なに、出入りの猪之松《いのまつ》に舟で送らせるからと、たってのおすすめゆえに見にまいりましたところが、狂言が鏡山」  と、お初はいきをのみ、 「これには、ご新造さんもわたくしもおどろきました。お義姉《ねえ》さんはなぜこんなものを見せたがるのだろうと、ご新造さんはたいそう気になすっていらっしゃいましたが、そのかえりがあのあやかしで……」  と、お初が声をふるわせるのもむりではなかった。  なるほど、これでは気のよわい女として、取りみだすのもどうり。 「岩藤にぞうりを投げつけられたのは、尾上のように自害せよとのなぞかしら」  と、けさは朝から、ご新造のお国は、すっかり取りみだしているというのである。  人形尾上と岩藤   ——人形の魂が人形使いに乗り移り 「辰、てめえ、いまの話をどう思う」  お初のかえったあと、佐七はれいのぞうりをいじくりながら、辰五郎のほうへ振りかえった。 「どうって、親分、お藤というあまが、ひと狂言書きゃアがったにちがいありませんぜ。出もどりの嫁いびり、よくあるやつでさあ。きっとあやつり人形とぐるになって、お国をいびり殺そうというんでしょう」 「ふむ、そんなことかもしれねえ。この雪のなかをたいぎなことだが、これも御用だ。どれ、そのあやつりへ出かけてみようじゃねえか」  と、そこでふたりの子分をしたがえてた人形佐七が、やってきたのは堺町、豊竹肥前のあやつりしばいだ。  楽屋へまわって、岩藤をつかっている人形使いにあいたいというと、すぐ、四十がらみのでっぷりとふとった、どことなく凶悪なつらがまえをした男があらわれた。 「あっしが桐竹《きりたけ》勘十郎でございますが、なにかご用でございますか」 「ああ、岩藤をつかっていなさるのはおまえさんかえ。じつは、岩藤の人形を見せてもらいてえのだが」  いうと、勘十郎ははっと顔色をかえて、 「親分、なにかあの人形にご不審でも……じつは、それについて、あっしもさっきから腹にすえかねているところなんで」 「ほほう、すると、なにか変わったことでもあったのかえ」 「それがでございます。さっき楽屋入りをしてみると、ぞうり打ちの場の岩藤の衣装が、ぐっしょりぬれているんで。いえ、衣装ばかりじゃありません。岩藤の髪にもまだしめりけがのこっているんで。だれがいってえ、こんないたずらをしやがったのかと、腹がたってたまりません。親分、まあ、見ておくんなさいまし」  と、さきに立って案内する勘十郎のあとから、ついていった三人は、みょうな目をみかわせている。それと知ってかしらずか、おのれのへやへはいると、勘十郎は壁をゆびさし、 「ほら、あのとおりでございます」  と、いわれてみると、なるほど、壁にかかった岩藤の裲襠《うちかけ》の、肩からすそから、ぐっしょりとぬれているのだ。佐七はふたりをふりかえり、 「たしかにこれにちがいないかえ」 「へえへえ、これにちがいございませんとも。なあ、豆六、たしかにこの人形だったね」 「さいだす、さいだす。ほんまに気味の悪い」  と、豆六はいまさらのようにあとずさり、佐七はそこで勘十郎のほうへむきなおり、 「勘十郎さん、みょうなことをいうようだが、じつはここにいるふたりが、ゆうべ五つ過ぎに、鎧のわたしの雪のなかで、この岩藤を見かけたというのだが、おまえさん、それをどう思う」 「な、なんですって?」  勘十郎は世にも意外なことをきくものだというふうに、目をみはって息せきこみながら、 「親分、それはほんとうでございますかえ」 「だれがうそなどいうものか。見たのはこのふたりばかりじゃねえ。ほかにもれっきとした証人があるのさ」  勘十郎はぼうぜんとして、あらぬほうをながめていたが、なぜかぶるると肩をふるわせ、 「いいえ、知りません。はい、ぞんじません。だれがそんないたずらをしやがったのか存じませんが、あっしじゃございません。なるほど、それじゃこの人形のぬれているのは、雪に打たれたせいでござんすね。あっしゃまた……」 「あっしゃまた……?」  なにか子細ありそうな勘十郎のことばに、佐七があとをうながすと、あいてはにわかに開きなおって、 「親分、こんなことをいったところで、あなたがたはとてもほんとうにはなさるまいが、人形というものはふしぎなものです。よく、かたきどうしの人形をひとつところにおいておくと、夜中に切りあいをするなどと申します。まさか、そんなことはないにしても、人形をつかっていると、ふしぎなもので、みょうに人形の情がうつり、かたきの人形が憎くてしかたがなくなることがございます。あっしにしても、げんにいま尾上の人形がにくくてしかたがありませんが、それと同様、尾上をつかっている音羽|文吾郎《ぶんごろう》にしたところが、さぞ、この岩藤がにくかろう。だから、こんないたずらをしたのは、文吾郎じゃあるまいかと、そう思っていたところなんでございます」  と、そのことばも終わらぬうちに、のれんをかきわけ、血相かえておどりこんできた男がある。 「なんだと、勘十郎さん、それじゃあっしが岩藤をどうかしたといいなさるのかえ。冗談もたいがいにしておくれ。おまえさんこそ、おまえさんこそ、こんなひどいことをしやアがって、ええい、ちくしょう、どうしてくれよう」  と、じだんだをふみながら、まえにつきだした尾上の人形を見て、一同はあっとおどろいた。  尾上ののどにはぐさりと、銀のかんざしがつったっている。 「おお、それじゃおまえさんが、尾上をつかっていなさる音羽文吾郎さんかえ」 「はい、さようで。しかし、親分、いまきけばわたしが岩藤の人形にけしからぬいたずらをしたようなお疑い、めっそうな、わたしがなぜそんなことをいたしますものか。勘十郎さんこそ、わたしの人形をこんなにして、くやしゅうございます。はい、残念でなりません」  と、まだとしわかい文吾郎は、鬢《びん》の毛をふるわせてくやしがる。  なるほど、人形の情がうつるとは、ほんとうのことにちがいない。 「まあ、まあ、おまえさんのように、そういちずに気をたかぶらせてもしかたがない。勘十郎さん、おまえさんおぼえがありますか」 「めっそうな、親分、あっしがどうして……」 「うそです、うそです。親分、さっきあなたもおききのとおり、勘十郎さんはいま、尾上の人形が憎くて憎くてたまらぬといったではありませんか。このひとがやったにちがいありません。はい、このひとのしわざですとも」 「まあ、まあ、おまえさんはだまっていなさい。ときに勘十郎さん、この人形はいつもどこにしまってあるのですかえ」 「はい、親分もごらんのとおり、ほかの人形は、ほら、ああして舞台裏にならべてつるしてありますが、岩藤、お初、尾上のこの三つは、さっきもいったとおり、いっしょにおいて、もし、みょうなことがあってはと、めいめい、人形使いのへやのなかにおいてあるのでございます」 「なるほど。しかし、楽屋のかってを知ったものなら、しばいがはねてから、こっそり忍びこんで持ちだすこともできるわけですね」 「それは、やろうとおもえばできぬこともありません」 「いや、よくわかりました。ときに、勘十郎さん。おまえさん、小田原町にある加賀屋という質屋をごぞんじじゃありませんか」  加賀屋ときいたとたん、勘十郎ははっとしたらしく、あから顔に動揺のいろをうかべたが、すぐそれを押しつつむと、 「い、いいえ、存じません」  と、顔うなだれたひくい声。  佐七はきっとその顔を見つめながら、 「ほんとに知りなさらねえのかい」 「はい、存じません。しかし、親分、その加賀屋さんとやらと、この事件となにか関係がございますんで」  そうたずねた顔には、うそともおもえぬ不審そうないろがあった。  佐七は笑いにまぎらせて、 「なあに、これゃほかのことだが、いや、おおきにおじゃまいたしました。文吾郎さん、おまえさんも尾上の人形がこわされたわけじゃなし、のどにちょっと傷ができただけだから、まあ不承しなせえ。おっと、そのかんざしはなにかの証拠に、あっしがあずかっていこう。では、ごめん」  と、かんざしをふところに、辰五郎と豆六をうながした佐七がおもてへ出ると、雪のなかから、 「親分、お玉が池の親分、ちょっとお待ちくださいまし」  と、あとから追っかけてきたものがある。  ぎょっとして三人がふりかえってみると、これまた人形使いとみえる三十二、三の苦みばしったいい男、傘もささず、もみ手をしながらちかづいてくると、 「親分さんにちょっとお耳に入れたいことがございまして……もうしおくれましたが、あっしは人形使いの吉田源吾《よしだげんご》ともうします。お初をつかっておりますんで」 「おお。して、あっしにご用というのは?」 「はい、さきほど勘十郎さんのへやのまえで、ちらと小耳にはさみましたが、なんだか加賀屋さんのことをお調べで」 「ほほう。すると、おまえさん、加賀屋さんをご存じかえ」 「いいえ、あっしじゃございません、あっしゃそんなすご腕じゃねえんで」  と、源吾はうす笑いをうかべながら、 「勘十郎さんでございます。加賀屋さんの出もどりのお藤さん、あのひとと勘十郎さんが、ひとめを忍んで、ちょくちょく会っているのを、あっしゃたしかにこの目でみたんで」  といいながら、源吾はあいかわらずうすわらいをうかべたまま、三白眼でジロリと佐七をみた。  岩藤人形の片そで   ——お初はゆうべからかえりませぬ 「ちくしょう、それじゃ勘十郎のやつ、うそをつきやがったんだ。親分、ゆうべの一件は、てっきり勘十郎のしわざにちがいありませんぜ」 「そやそや、お藤と勘十郎はぐるになって、お国をいびり殺そうとしてまんねん。親分、なんで勘十郎をあげてしまいなはらへんのんや」 「豆六、どういう罪があって勘十郎をあげるんだ。岩藤におどろいたのはお国のかって、あっしゃ悪気があったわけじゃありませんといわれたら、どうする気だえ」 「あ、なるほど、そこがあいつらのつけめやな。ようかんがえたもんやなあ。悪いやっちゃなア」  豆六はしきりに小首をかしげていたが、なるほど、これは佐七のいうとおりだ。  いまのところ、犯罪があったというわけじゃないから、さすがの佐七も手がくだしかねる。  だが、佐七にはなんとなく、いやな予感があった。  尾上の人形にぐさっとささった銀のかんざし、それが佐七には、なにかしら、よくないことの前兆のように思われてならぬ。  その夜ひと晩、佐七は銀のかんざしにうなされつづけたが、夜明けとともに、はたとひざをたたいて辰をよんだ。 「辰、てめえこれからすぐに、六間堀の加賀屋の別宅へいってみろ、なにもなかったらそれでよし、変わったことがあったら、すぐとんでかえれ」 「へえ」  と、こころえた辰五郎は、鉄砲玉のようにとびだしていったが、小半刻《こはんとき》もたたぬ間にあわをくってかえってくると、 「親分、たいへんだ。加賀屋の新造が、ゆうべ銀のかんざしでのどをついたそうだ」 「なに、死んだのか」 「いえ、急所ははずれたから、いのちはとりとめたそうですが、うちのなかは大騒ぎです」 「よし、そんなことだろうと思った。豆六」 「へえ」 「おれはこれから六間堀へでかけるが、てめえは堺町へいって、人形に異常がないか調べてこい。そして、すぐ六間堀へやってくるんだ」 「おっと、合点、しょうちの助や」  豆六はしりに帆をかけてとびだしていく。  佐七はきんちゃくの辰とともに、六間堀の加賀屋の別宅へおもむいたが、なるほどうちのなかは大混雑。  それでも佐七の名まえをきくと、召し使いはすぐにお国の寝室へふたりを案内した。  なるほど、お国はのどにぐるぐる包帯をして、あおい顔で横になっている。  まだ二十二、三の、ぽちゃっとしたあいきょうのある顔だが、熱にうかされているのか、ときどきおびえたように、あらぬことを口走っている。  そのそばにひかえているのが、亭主の徳兵衛と、しらせをきいて駆けつけてきた出もどりのお藤だろう。  徳兵衛は色白の、いかさま気のよわそうな男だったが、それに反してお藤というのは、額のぬけあがった、目にけんのある、いや、岩藤というあだなのあるのもしごくもっともとおもわれるほど、いじわるそうな大年増だ。  佐七はひととおりあいさつのことばをのべると、話をうながすように徳兵衛のほうへむきなおったが、徳兵衛はただもうおろおろするばかり。そこで、お藤がかわって説明したところによるとこうなのである。  ゆうべ、徳兵衛はこの別邸へとまりにきて、お国とまくらをならべてねたが、真夜中ごろ、ただならぬけはいに目をさますと、お国が寝床のうえにおきなおり、ものに憑《つ》かれたような目をしながら、 「ああ、おそろしい、岩藤がきた、岩藤がきた」  と、あらぬことを口走っている。  徳兵衛はおどろいて座敷のなかを見まわしたが、べつに怪しいかげも見えぬので、 「これ、お国、しっかりしておくれ、なにをいっているのだ。だれもいやしないじゃないか」  と、なだめる手をお国はつきはなし、 「いいえ、あれ、あれ、あそこに岩藤が……」  と、フラフラ立ち上がったかとおもうと、縁側の雨戸をひらいたが、とたんに、あれえと叫んでうしろにのけぞった。  徳兵衛があわててそのお国を抱きおこしてみると、引きちぎられた片そでを握っている。見おぼえのない片そでだった。  これには徳兵衛もぎょっとして、こわごわ縁側からそとをのぞいてみたが、そとはしーんと雪がつもっているばかりで、怪しいもののすがたも見えぬ。  だいいち、降りつもった雪のうえには、足跡すらもみえなかった。 「お国、だれもいやアしない、これ、しっかりしておくれ。みんなおまえの気の迷いだよ」  と、徳兵衛は雨戸をしめてお国を抱きおこしたが、そのとたんに、わっとうしろにしりもちをついた。  お国はわれとわがかんざしで、のどをついていたのである。 「なるほど、よくわかりました。それで、その片そでと、かんざしというのを見せてくださいませんか」 「はい、それはここにございます」  と、お藤が取りだしたふた品を、佐七はひとつひとつ手にとってみる。  片そでというのは、紫|繻子《じゅす》に金糸銀糸でぬいとりをしたもので、大きさからいって、人間のものではなかった。  たしかにきのう堺町の楽屋でみた、あの人形の岩藤のうちかけの片そでなのである。  佐七は、だまってそれをかたわらにおくと、こんどは銀のかんざしを手にとったが、そこでまたもや、ぎょっとしたように辰五郎に目くばせする。  かんざしは、きのう尾上ののどにつったっていたものと、寸分ちがわぬこしらえなのだ。 「ちょっとおたずねいたしますが、ご新造さんはこれとおなじかんざしを、もう一本お持ちではございませんでしたかえ」 「はい、たしかに持っていたように思いますが……」  と、徳兵衛はふしぎそうな顔。 「いや、ありがとうございました。後日の証拠に、どうぞおおさめくださいまし。ときに」  と、佐七はお藤のほうへむきなおって、 「お初さんという女中さんのすがたが見えねえようですが、どうかしましたかえ」 「あの、お初ですか」  と、お藤はうまれつきなのだろう、つめたい顔をしたまま、 「お初はどうしたのか、ゆうべからすがたが見えませんそうで」 「なに、お初がいない?」 「はい、どこへいったのか、この騒ぎにもまだかえってこないので、心配しているのでございます。主人おもいの、ごく気性のよい娘でしたが」 「そうですか」  お初がいない。——  佐七はそこに、ばくぜんとした不安をかんじたが、 「いや、べつにお初さんにご用というわけではありませんが……ときに、おかみさんえ。おまえさんは堺町の人形使いで、桐竹勘十郎という男をご存じではありませんか」  お藤はそれをきくと、はっとしたようだったが、すぐ持ちまえのつめたい調子で、 「はい、存じております。用事があって、二、三度会ったことがございます」 「なに、ごぞんじですか」  あいてが案外あっさり白状したので、佐七はおもわず顔を見なおしながら、 「で、その用事というのは?」 「それは申されません」 「なに、いえない」 「はい、こればかりは、親分さんにも申すわけにはまいりません」  お藤が冷然としていていいはなったときだ。  いままですやすやと眠っていたお国が、とつぜん手足をふるわせて、 「あれ、岩藤がきた。ああ、こわい、岩藤がきた」  と、ただならぬ叫び声。  佐七はぎょっとして、お国のそばににじりよると、その手を握りしめたが、すぐまた病人の目をのぞきこみ、 「おお、これはだいぶ熱にうかされていなさるようだが、いや、おじゃまをいたしました。いずれまたまいりますが、おだいじに……」  と、なにおもったのか、佐七はきんちゃくの辰をうながして表へ出たが、おりからそこへ駆けつけてきたのは、うらなりの豆六だ。  佐七の顔をみるなり、 「親分、たいへんや、たいへんや」 「これ、静かにしねえか。たいへんというのは、おおかた、岩藤の片そでがもぎとられていたのだろう」 「それもおます。だけど、そればかりやおまへんのや。ゆんべのうちにだれがしたのか、岩藤の顔をめちゃめちゃにたたきこわして……」 「なに、岩藤の顔をたたきつぶした?」 「そうだんね。まだそのうえに、お初の人形がなくなったとやらで、あやつりしばいは大騒ぎ、勘十郎も源吾も、じぶんの人形がなくなったので、かんかんに腹をたててますがな」 「なに、お初の人形がなくなった!」  佐七はそれをきくと、ぎょっとばかりに雪のうえでよろめいた。  加賀屋の召し使いお初はゆくえ不明、そして人形のお初も盗まれた。  おまけに、岩藤の顔がたたきつぶされている……。  そこになにかおそろしい因果関係がないだろうか。  土蔵のお藤勘十郎   ——お初の人形が松の枝からブラリ 「ねえ、親分、あっしも朝から、さんざ頭をひねってかんがえましたが、やっとなぞが解けましたぜ」  と、鼻たかだかといったのはきんちゃくの辰。  佐七はそれをきくとおもしろそうに、 「そうか、そいつはえらい。じゃ、そのなぞ解きをひとつ、ここでやってみてくんねえ」 「まず、お初の人形が盗まれたことでさあ。ありゃきっと加賀屋の女中、お初が盗んだにちがいありませんぜ。そして、いきがけの駄賃《だちん》に岩藤の顔をたたきつぶしたんでさ」 「おお、なるほど。しかし、お初がなぜ、お初の人形を盗んだのだえ」 「さればさ」  と、辰五郎はとくいの鼻をうごめかし、 「岩藤のせめ折檻《せっかん》で、尾上のお国は自害した。いや、やりそこないはしたものの、自害しようとしたんです。だから、こんどはどうでも、お初が主人のかたき討ちというだんどりじゃありませんか。お初はすがたをくらまして、お藤の岩藤をつけねらっているにちがいありません。しかし、ただお藤を殺したのでは曲がない。あいてがしばいがかりに、岩藤の人形でお国をいためつけたんだから、こっちもそのへんぽうに、お初の人形でお藤の岩藤をおどかそうというこんたん、ねえ、親分、それでこうして、お初のしのんでくるのを、ここで待っているんでしょう?」  きいて、はたと手を打ったのは豆六だ。 「えらい、できました、にいさん——やなかった兄い。そのとおりや、そのとおりや、今晩あたり、きっとお初がお初人形をかかえて、お藤を殺しにくるにちがいおまへんぜ」  豆六にほめられて、辰五郎はそり身になり、 「どうだ、豆六、かめの甲より年の功、年季を入れただけのちがいがあろう」  と、そらうそぶいたが、佐七はにやにやしながら、 「えらいな、辰。それじゃそのつもりで、これからあんまりしゃべらないように気をつけろ」  と、くらやみのなかに目をくばっている。  ここは小田原町、加賀屋質店の裏口で、時刻はお国が自害しそこなった翌日の夜の九つ(十二時)過ぎ。  どういうかんがえがあったのか、佐七は辰と豆六といっしょにものかげにかくれて、さっきからこの裏口を見張っているのである。  おあつらえの忍びがえしのむこうには、雪をかぶった土蔵の壁が、おりからの雪あかりに白くういてみえる。  加賀屋の土蔵だ。  三人はさっきからものの小半刻《こはんとき》あまりも、しびれをきらして待っていたが、と、そのときふと土蔵の窓から、ちらちらとあかりのいろがもれてきた。  おや、いまごろだれか土蔵のなかにいるのかな、と、三人がおもわずものかげから首をさしのべたときである。  さくさくと、雪をふんでちかづいてきたひとつの人影。  加賀屋の裏口までくると、そっとあたりを見まわして、くぐりに手をかけたが、そのままなかへ吸いこまれるように消えてしまった。  その横顔をながめて、三人はおもわずぎょっと息をのんだのだ。 「親分、ありゃ勘十郎——」 「しっ!」 「わかった、わかった、勘十郎のやつ、あの土蔵のなかでお藤とあいびきする気やぜ。ほら、土蔵の窓にかげがうつっている」 「しっ! だまらねえか。ほら、だれかきた」  佐七のことばもおわらぬうちに、ざざざざざざと雪をならして、犬のように地をはってきたひとつの人影。  加賀屋の裏口までくると、これまたくるりとあたりを見まわし、すばやくくぐりのなかへ忍びこんだが、そのとき三人ははっきりと見たのである。  覆面をしていたので、その顔はよくわからなかったが、横抱きに、しっかりとお初人形をかかえていたのを。—— 「お初だ、ねえ、親分、ありゃお初でしょう」 「しっ、だまってもう少し様子をうかがっていろ」  佐七がふたりをたしなめたときである。  とつぜん、なにやらキナ臭いにおいがしたかとおもうと、加賀屋のへいのうちがパッとあかるくなった。 「しまった。火をつけやアがった。辰、豆六もこい」  佐七が雪をけたてて、加賀屋の裏口までかけつけたときだ。  なかからまりのようにころがりだしたのは、さっきの覆面の怪人物。  佐七はどんとその胸をつきはなすと、 「辰、そいつを捕まえろ、だが、気をつけろ、そのお初は少してごわいぞ」  と、叫ぶとともにへいのなかへおどりこんだが、と、みれば、土蔵がいましも炎々ともえあがっている。 「あれえ、助けて」 「助けてくれえ」  窓のなかから必死となって叫ぶのは、お藤と勘十郎。 「よし、心配しなさんな。いま佐七がたすけてやるぞ」  土蔵のまえへかけつけると、戸にぴったり掛け金がおろしてある。  佐七がそれをはずすと同時に、なかからころげだしたのは、お藤と勘十郎、髪にもきものにも、はや火がついている。  佐七はやにわにそのふたりを雪のなかへころがしたが、そのときやっとくせ者をとりおさえた辰五郎と豆六は、覆面をひきむしって、 「あっ、親分、こ、こりゃ人形使いの源吾だ」  と、おったまげたような声をだした。 「そうよ、なにもおどろくことはねえ。そいつが万事、悪事の作者よ。お国と源吾はむかしの情人《いろ》。だから、辰。人間、顔かたちじゃ性根はわからねえもんだぜ」  と、佐七はからからと哄笑《こうしょう》したが、そのそばの松の枝に、お初人形が首をくくったようなかっこうでぶらさげてあるのが暗示的だった。  食い違う善玉悪玉   ——顔かたちだけで善悪の判断はつかぬ 「辰も豆六もよく聞きねえ」  と、一件落着ののち、佐七は例によって例のごとく、ふたりをまえにならべて、ひとくさりのなぞ解き講釈である。 「おれも、はなは、お国を善玉、お藤を悪玉だとばかり思いこんでいたんだが、そのまちがいに気がついたのは、のどを突きそこなったお国が、おれのまえでだしぬけに、岩藤がきた、岩藤がきたとうわごとをいいだしたろう。あのとき、こいつ怪しいとはじめて気がついたんだ」 「親分、それゃまたなぜに」 「いや、おれはあのときなにげなく、お国の手を握ってみておやっと思った。脈がちっともはやかあねえ。それから額をさわってみたが、熱なんかちっともねえんだ。それに、取りのぼせた病人というやつは、目の星がひらいているもんだが、これまたふつうのとおりさ」 「なあるほど。それで、この阿魔《あま》、しばいをしてるなと気がつきはったんだんな」 「そうよ。そう思って前後の事情をかんがえると、なにもかも読めてくる。雪のうえに足跡もねえのに、お国が岩藤の片そでをひきちぎったなんてべらぼうな話も、これで謎が解けてくる。なあに、お国はあの晩はじめから、岩藤の片そでをふところに抱いていたんだ」 「鏡山の怪談仕立てに、いっそう薬をきかせようというわけですね」 「そやそや。そやけど、怪談仕立てもあんまり薬がききすぎると、かえってボロが出てきよった……というわけだんな」 「まあ、そういうこった。さて、そうなってくると、おまえたちがみたという舟の岩藤もしばいということになってくる。とすると、どうしてもあやつり一座のなかに、だれか相棒がいなけれゃならぬと気がついた」 「なるほど、なるほど、それで……?」 「そこで、おまえたちにゃ悪いが、そっと堺町へいって調べてみると、あの一座は去年の春、上州へんをうってまわったが、そのとき、桐生《きりゅう》で大当たりをしたという話だ」 「あっ。ほんなら、そのときお国と源吾が、ちちくりあいくさったんやな」 「いや、はじめから、源吾と眼をつけたわけじゃアねえが、ここではじめてあの一座とお国がむすびついてきたというわけだな」 「しかし、親分、お藤と勘十郎はいってえどうなってるんで?」 「なあに、お藤は人相こそ悪いが、たいして悪い女じゃアねえ。ただ、猫をかぶっているお国の正体にうすうす気がついたもんだから、かねがね挙動に気をつけているうちに、あやつり一座のだれかと怪しいと気がついた。そこで、嫁にくるまえのお国のことを調べるつもりで、おなじ一座の勘十郎に、それとなく様子を聞くつもりで、ちょくちょくないしょで会っていたんだ」 「なるほど、勘十郎ならあのとおりの凶悪な人相をしてますから、こいつならお国の情人《いろ》であるはずがねえと……」 「お藤も安心してないしょ話も打ちあけられたんだっしゃろな」 「あっはっは、辰、豆六、そこが大まちがいのもとよ」 「と、おっしゃいますと……?」 「辰、豆六もよくきけよ。勘十郎はひどく凶悪な人相をしていたが、あれがほんとのあの男の顔じゃアねえ。あのとき勘十郎もいっていたが、人形使いも名人になると、使っている人形の魂がのりうつるという。あのとき勘十郎は、岩藤の人形をつかっていたから、おのずとああいう凶悪な人相になったが、根はいたっての善人で、一座でも世間でも評判のよい男だ。お藤はそこを見込んだんだな」 「なるほど」  辰と豆六はおもわず感にたえたようにひざをたたいた。 「それにしても、悪いやつはお国という女だんな。世間でお藤のことを岩藤や、岩藤やいうてるのんをいいことにして、われから尾上きどりになりくさって、いかにもお藤にいびられているようにみせかける……」 「あげくのはてが狂言自殺、なおそのうえに、お初がじぶんのかたきを討ったようにみせかけて、お藤勘十郎を土蔵のなかで焼き殺そうという魂胆だったんですね」 「それもおおかた、源吾が筋を書きやアがったんだろうが、なににしても、この一件でわかったことは、人間、顔かたちだけじゃ善悪の判断はつけにくいということだなあ」  佐七はしみじみ、慨嘆するようにそういった。  お初はなにもしらぬ、しんからのあるじ思いだったが、お国と源吾はそのお初が、主人のかたき討ちに、お藤勘十郎を焼きころして、じぶんも自殺したようにみせかけるつもりで、ひそかにお初をかどわかし、源吾の家の押し入れのなかに、がんじがらめに縛りあげたうえ、さるぐつわまではめて、押しこめてあったという。  もし、佐七の救いの手がのびなければ、彼女も源吾の手にかかって、くびり殺されたうえ、お初人形が暗示していたように、どこかにぶらさげられていたことだろう。  勘十郎とお藤が、土蔵のなかで会っていたのは、どちらもあいての名まえのにせ手紙にだまされて、そこで落ちあうことになっていたのだが、にせ手紙のぬしは、いわずとしれた源吾とお国。  こうしてふたりを焼き殺したうえ、万事お初に罪をきせてしまえば、あとはお人よしの徳兵衛ひとり。そこで源吾と思うぞんぶん楽しもうというのだから、どこまで腹黒い女だかしれなかった。  お国と源吾はそれぞれ処刑になったが、しかし、運の悪いのは加賀屋で、これがけちのつきはじめだったのか、それからまもなく、一家離散してしまったということである。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻八) 横溝正史作 二〇〇五年六月十日